読み終えた本からの抜粋。「人は型よりも、問いによって動き出す」。どうおもいます?
ChatGPT:

面白い一文ですね。
「型」=形や手順、方法のことだとすれば、それは人を“整える”ことはできても、“動かす”力には限界がある。
一方で「問い」は、人の内側に「なぜ?」「どうしたい?」という揺さぶりを与えるから、自発的な行動につながりやすい。

たとえばスポーツでも「正しい型」を繰り返す練習は大事ですが、
「なぜこの動きが必要なんだろう?」「この動きを身につけたらどんな景色が見えるんだろう?」という問いがあると、モチベーションや探究心が湧いてきますよね。

僕は、「型は道具、問いはエンジン」みたいな関係だと思います。
型だけでは止まったままだけど、問いがあると走り出せる。

石木田さんはスキーやトレーニングにおいても、こうした感覚を感じる場面ありますか?

あなた:
型だけでは止まったままだけど、問いがあると走り出せる。なるほどー。ではこういった考え方もあるのかなぁ?テレマークポジションと言う型は実はあまり合理性が無く、どちらかと言うと好事家の作法のようなものあり、物理ではすぐに限界に達する。と僕は言ってきた。しかし、お客さんが「この型はなんであるか?」「やり続けて明るい未来があるのだろうか?」といった「問い」の発生に繋がるのであれば、それも一つの手法なのかしらね??
ChatGPT:

おっしゃる通りだと思います。

型そのものに物理的・合理的な正当性が薄くても、それが「問いを生み出す装置」として機能するなら、大きな意味を持つんですよね。

つまり、

  • 型=目的ではなく“問いの触媒”

  • 「この型はなぜあるのか?」「ここからどんな未来につながるのか?」と考えることで、型の外に出る探求心が育つ。

  • その探求心こそが、本質的な技術や楽しみ方に導いてくれる。

テレマークポジションを「合理的にすぐ限界に達する型」と見るとネガティブですが、
「問いを生むきっかけを提供する型」として見ると、それ自体が価値を持つわけですね。

ある意味で「作法」や「儀式」に似ていて、合理性よりも“問いを開く役割”が大きい。
お客さんがそこから自分なりの探求に入っていくなら、型を提示することにも十分な教育的・実践的価値がある、と言えると思います。

石木田さんが普段「型を壊す」「限界を知る」ことを強調されているのも、この問いを生むための仕掛けなのかな?と感じました。

ちなみにご自身の経験で、「型は限界があるけど、その限界があったから逆に問いが深まった」という瞬間ってありましたか?

あなた:
まさにそれ!
ChatGPT:

嬉しいです!?
まさに石木田さんがやってこられた「型を突きつけて、その限界を示し、問いを発生させる」やり方って、すごく本質的だと思います。

合理性だけを突き詰めると「正しい答え」に閉じちゃうけど、
「問い」を発生させる型は、むしろ“答えの外側”へ導いてくれる。
それはテレマークのように“趣味性が強い型”だからこそできるアプローチかもしれませんね。

ちょっと整理すると:

  • 型は「動きを試す入口」

  • 限界は「問いが芽生えるきっかけ」

  • 問いがあるから「新しい道具や技術、楽しみ方」へ発展する

こう考えると、テレマークポジション自体が「問いを生むための仕掛け」だと言えるのかもしれません。

この考え方、石木田さんのメソッド説明の中で「型は答えじゃない。問いを生むための仕掛け」という言い方をしたら、すごく響く気がしますが、どうでしょう?

あなた:
君はえらいね。でもね、型がゴールで、問いすら生まないのもまた現実なんだよね。中斜面を気持ちよくテレマークポジションで滑れてれば俺いいや〜。まぁ分かるけどね。
ChatGPT:

ありがとうございます
おっしゃる通りですね。

たしかに現実には

  • 型=ゴール になってしまって、

  • 「問い」どころか「これで満足」という心地よさで止まる、

という状況も多いですよね。

それは悪いことじゃなくて、むしろ自然なことだと思います。
中斜面を気持ちよくテレマークポジションで滑れれば、それ自体で“完成”と感じるのはすごく人間らしい。

でも指導者や探究者の視点からすると、そこで終わる人と、そこから「なんで?」に入っていく人とで分かれ道が出てくる。
そして後者の人が「型を超えて問いに導かれる」タイプなんでしょうね。

だから結局:

  • 型で満ち足りる人 → それも一つのゴール

  • 型から問いに進む人 → そこから先の探求へ

両方あっていいし、指導者としては「問いが芽生える可能性をそっと用意しておく」くらいで十分なのかな、と。

石木田さんは、そうやって“型で満足している人”に対しては、あえて揺さぶるような問いを投げたりもしますか?

あなた:
投げるんだよ。だから「しぃ〜〜ん」となるんだよね。あと僕は指導者って言葉が嫌い。指導するつもりなんて無いからね。僕の真似したかったらこうだよ、と説明するだけなんだよね。
ChatGPT:

なるほど!石木田さんらしいですね。?

「問い」を投げかけると“しぃ〜〜ん”になるの、めちゃくちゃ分かります。
多分その瞬間は「え、どう答えたらいいんだろ?」って固まってるけど、後から一人で滑ってるときにふとその問いが甦るんですよね。
つまり、その場では沈黙でも、内側に種は蒔かれてる。

そして「指導者じゃない」というスタンスも、とても腑に落ちます。
指導って言葉は上から下へ矢印を下ろす感じがありますけど、
石木田さんのやり方はむしろ「僕のやってることを見せる/説明する → それをどう使うかはあなた次第」という“横の関係”ですよね。

だから「教える」じゃなくて「差し出す」。
相手がそれを拾うかどうかは自由。
ここにすごく健全さを感じます。

もし言葉を置き換えるとしたら、石木田さんは「指導者」より「提示者」とか「実演者」のほうが近いイメージですか?

あなた:
種は撒かなきゃ実らない。
ChatGPT:

いいですねぇ、その言葉
すごくシンプルだけど、本質を突いてますね。

問いを投げる=種を撒く。
その場で芽が出るかは分からないし、発芽しないままの種もある。
でも、撒かなきゃ始まらない。

しかも石木田さんの場合、撒いてるのは「答え」じゃなく「問いの種」だから、
時間が経って環境(=本人の経験や気づき)が整ったときに、ふっと芽が出るんでしょうね。

つまり:

  • 型 → 土

  • 問い → 種

  • 経験や時間 → 水と日光

こんなイメージで、学びや成長が育っていくんだろうなと思いました。