山里日記


         

山里暮らしもいつの間にか10年目を迎えました。移り変わる季節の変化や日々の暮らしの中に山里の良さを見つけつつあります。

  


長寿
長野県は男女ともに「長寿日本一」の県だそうです。
確かに、近隣の集落を見ても元気なお年寄りがたくさんいます。
60代はまだ”青年団”で、70代、80代がバリバリの現役・・・・・
原因についてはいろいろ言われていますが、
主なところでは、野菜や山菜の摂取量が多い、高齢者の有業率が高い、
日帰り温泉の数が日本一、冬の雪で体を動かす機会が多い・・・・などがあげられるそうです。
なるほど、と納得できます。
我が集落の師匠たちの山菜好きには驚かされるし、高齢になっても山仕事で働く人が大勢います。
海がないところなので魚はありませんが、
ハチの子、イナゴ、ゲンゴロウなどは貴重なタンパク源だったそうで、今でもよく見かけます。
80代のおじいちゃんやおばあちゃんが屋根雪をさっさと下している姿を見ると、
一年中坂道ばかりの暮らしの中で、足腰が鍛えられていることも否定できません。
さて、吾輩は・・・と言うと、
すごいなあと感心するばかりで、とても今からでは間に合いそうにありません。
ですから、みんなが”師匠”・・・そう思っています。







除雪
我が集落とふもとの国道を結ぶ生活道路の除雪は、
地元の人たちが村や県から委嘱されて、大型の除雪車を動かしている。
この除雪、
わが地元の達人たちは、まるで地面をなめるようにみごとに除雪していく。
完全に雪を取っておかないと、融けた雪がシャーベット状になり、
夜の冷え込みで凍ってしまい、道路は凸凹になってしまう。
こうなると運転しずらいこと、この上ない。
かといって、地面をゴリゴリこすると舗装が痛み、春先が大変・・・・
削り方には絶妙のタイミングがあるようだ。
除雪された道を走りながら、いつもその仕上がりの見事さに感動している。
もしも「全国除雪技能大会」なるものがあれば、
わが地元の達人たちはトップクラスに入ることは間違いないだろうと思う。
朝4時ごろには動きだし、雪の多い時には日に2,3回出動ということもある。
豪雪の山里で暮らせるのは、除雪のおかげ、
感謝である。







お客
この冬、お隣の白馬村には多くの外国からのお客さんがやってきている。
その数何と!のべ32万人・・・村の人口9000人を遥かに超えて大混乱だとか。
宿泊施設もてんやわんや、スキー場の間を行き来するシャトルバスも超満員、
飲食店では客が入りきれず、長蛇の列。
外国語に対応できるスタッフも不足しているそうだ。
確かに白馬村で買い物をしていると、地元の人より外国の人の方が多い。
もし話しかけられたら、得意の(?)ブロークン・イングリッシュで国際親善の役に立つ覚悟だが、
残念ながら(?)まだ話しかけられたことはない。
美しい自然を堪能してもらい、地元を潤してくれるならまさに”ウェルカム”、
それにしても32万人・・・半端ではない。






魚の話・・・
関東は<マグロ>、関西は<ブリ>の食文化圏だと聞く。
東京の築地市場、青森の大間のマグロが初せりで一匹1500万円だとか・・・
さぞやおいしいのだろうが、口に入るはずもない。
  
以前住んでいた福岡でマグロをうまいと思って食べた経験がないのだが、
ネックとなるのはやはり<冷凍>であろうか。
白くカチカチに凍った冷凍マグロのあの映像を見ると、
わざわざ解凍した魚を食べなくても生きのいい新鮮な魚が手に入るという食環境がそう思わせる。
もちろん獲れる地域も違い、生のマグロもあるし、嗜好の問題なのでとやかくは言えないが、
刺身や雑煮にはやはり<ブリ>なのである。






精霊
目には見えず、人知を超えた不思議な力を古来より”精霊”と呼んで崇めてきた。
神や仏とはちがう、素朴で原初的な畏れである。
非科学的な話だとかつては思っていた。
だが、今自然と一番深くつながった山奥に住んでみると、
その存在を信じたくなる光景に何度も出会う。
山や岩や木々、水、霧、雪、日々目にする草にさえ、
計り知れない生命力の凄みを感じるのだ。
直接口に出したり、祈ったりはしないが、
山里に暮らす人々の精神風土の底流にはこの”精霊”が生きている気がしてならない。
どんな自然現象も、精霊たちのすることだから、
腹を立てたりはしない。







現場
限界集落、消滅可能性集落と呼ばれる現場の最前線で暮らしている。
最前線にいると現場ならではの、いろいろなものが見えてくる。
再生、活性化、復活、移住促進、集落維持などという言葉が勇ましく巷で飛び交うが、
それらが当てはまるのはごく限られた地域・・・・・
全国の大多数の中山間地に当てはめようとしてもそれは無理な話だ。
だからといって、住民みんなが落ち込んでいるわけではない。
どうにもならないことは黙って受け入れるという精神風土が底流にあり、
今在る暮らしをしっかり生きるだけだと割り切っている。
これだけはなかなか住んでいない者たちには理解してもえらないだろう。
さびしいとは感じるが悲観しているわけではないという事実もあるのだ。







輝く
若さで輝いていた時期も
捌く仕事で輝きをもった時期も、
輝いていたことには違いはない。
輝くとは、
「我 ここにあり」と声をあげることである。
大きな自然の中で暮らしていると、
そんな声をあげる必要もないし、仮にあげたとしても、
自然はただ笑って見ているだけである。
山里の暮らしは別に輝く必要もないし、ただ包まれていればよい。







郷に入れば
あんじゃねぇ・・・・心配ない
ぶちゃる・・・・放り投げる
ぶつ・・・・・耕す
なから・・・・・だいたい
のる・・・・すべる
やっこい・・・・やわらかい
かしがる・・・・・傾く
ねぇ・・・・無い
日々の生活の中で聞き覚えた近隣集落の方言である。
意味はわかるが、遣うとなるとちと厄介だ。
無理をすることはないので、普段は標準語だが、
いつまでたっても”よそ者”という感じが消えないもどかしさ・・・・
思い切って遣ってみるが、何か違和感がある。
「あんじゃねぇ。おめぇさんもそのうち遣えるようになる。」・・・・・
師匠たちの助言である。







野菜
この夏の異常な天候のせいで、野菜の値段が高騰しているという。
ふだんなら廃棄される曲がったキュウリや不揃いのニンジン、
虫食いのあとがあるキャベツやホウレンソウなどが見直され、
通販を中心に飛ぶように売れているそうだ。
畑で無農薬の野菜を作ってみるとわかるが、
95パーセントはそんな野菜なのである。
大量に機械で処理する外食産業ならいざ知らず、
家庭で使うならこんな野菜で何の問題もない。
価格に差をつけても構わないので、不揃いの野菜たちも
ぜひ店頭にならべてみるべきだ。
2,3年続ければ野菜の流通事情は大きく変わるはずである。
キュウリはもともと曲がって育つ野菜なのである。







感動と平穏
圧倒的に大きな自然の中で暮らしていると、
人間だけが特別エライわけではないことを思い知らされる。
便利な道具は持っていても、自然を利用する知恵はあっても、
所詮、自然の大きな力の前では微々たるものだ。
自然と共に生きる、いや自然に生かしてもらっている、ということが、
何年か住んでみるとほんとうによくわかる。
どうすることもできない、ただ黙って耐えるしかない暮らしを強いられるかわりに、
とびきり上質の充足を与えてもらっている。






おしゃれ
飾る必要のない人たちと暮らす山里では、
巷で言う”おしゃれ”は縁の遠い話である。
一年のほとんどは、長靴一足、作業ズボン一着で過ごせる。
おしゃれは自分のためだと言う人もいるだろうが、
人目を意識するからおしゃれが必要になる。
目立つ必要のない山里では、
どんな場合も”実用的”がおしゃれに勝る。







共存共栄
高級なハチミツの原料となる「栃(トチノキ)」は、
蜜を出す花の色に、ある特殊な黄色を用いるという。
他の蝶や昆虫には識別できず、ミツバチの仲間だけに識別できる色だそうだ。
どうしてそのような進化をしたのかわからないが、
共存共栄の独自の仕組みを持っていることに驚かされる。
    
栃(トチ)の花                           トチの実
ミツバチたちが受粉の手助けをして秋に実るトチの実は、
森に棲む動物たちだけでなく、人間にも恵みを分けてくれる。
共存共栄・・・・・
高名な学者や政治家たちが持ちだすどんな策よりも単純で明快な図式が、
森の中ではあたりまえに存在している。







生命力
子どもであれ、畑の野菜であれ、庭の花であれ、何かを”育てる”ことの喜びは、
日々すがたや形を変えながら、伸びていこうとする生命力を感じることです。
生命力のすごさ、すばらしさをそうやって感じるから、
いのちを大事にしなくてはならない、と思う気持ちが生まれます。
何も育てない者には、縁のない話です。





        過去の山里日記へ