山里日記


         

九州から信州の山奥へ・・・何を血迷ったか、と言われながらも、仙人になる夢を果たすために日夜奮闘しています。その一端を・・・・・・・・

 信州は山国である。山の幸には恵まれていても、海の幸を手に入れるには昔から苦労してきたという
歴史を持つ。中でも「塩」は生活には欠かせないものながら、海から遠いという立地条件からなかなか
入手することが困難なものであった。文献を読んでいくうちに、塩にまつわる話を多く目にした。
     
 天明三年(1783年)、大飢饉に襲われた時の話・・・・・・県の南部の村で、串柿をあまりに高価に買って
いく人がいた。わけを聞くと、「ねこだ」を粉にして、これに串柿をまぜて食べるという。金銭はあるが、塩が
まったく欠乏していたことを物語る。「ねこだ」というのはむしろのようなござのことで、農家では囲炉裏の
まわりに敷いて使っていたもの。それを小さく刻んで柿といっしょに食べたというのである。ねこだには
日々の生活の中で、いつの間にか塩分がしみ込んでいる。中でも「女ザシキ」と呼ばれる、主婦の座った
ものが一番うまかったそうだ。
 昭和20年、終戦前後も塩の欠乏がはなはだしかった。長野県も独自に海岸に製塩所を造ったが、それでも
需要を満たすことができず、塩一升に米二升で交換する闇相場ができたという。
 その他にも、塩の獲得にまつわる話はたくさんある。漬物から出る水や漬物を洗った水も高価なものとして
取引されたのだとか・・・・信州の味噌がおいしいのも、塩分を蓄えるために味噌にして保存した歴史の中で
長年の熟成からおいしい味噌ができたという。
 このように、塩は信州の人々にとっては何をさておいても手に入れなければならないものであった。
 その塩を日本海の糸魚川から信州の村々へ運んだルートが「塩の道」だったのだが、あらためて塩を
運搬する重要性を思い知らされる。今は安く手軽に求めることができる塩、ゆめゆめおろそかに使っては
ならないのである。





山里の味
 新そばにおやき・・・・・・・言わずと知れた信州の代表的な味である。折しも今、県内のいたるところで 
新そばを食べさせてくれる催しがおこなわれている。
  
 おやきは、小麦粉やそば粉を生地にして、その中に味付けをした野菜などを包み、蒸したり焼いたりして
食べる携帯食、素朴な田舎の味が楽しめるので人気のある食べ物だ。
 小谷村でもこの二つは日常的によく食べられている。先日、地元の知り合いの人が、「おやきやそばが
名産なんて、さびしいし、暗いね。」と意外なことを言うのを聞いた。よく考えてみればそうかもしれない。
 観光客にとっては格好のおみやげになる、これらの食べ物は、急峻な地形や狭い耕地で思うように米が
とれなかった信州の人たちが、やむを得ず主食の米の代用食として作り、食べてきたもの、おいしいからとか
健康に良いから、などという理由からではないのだ。そばは冷涼な信州の気候風土に合った作物で、やせた
土地でも育つし、米のような手間暇はかけなくて済む。おやきも、中に包むものが自家製の野菜、お金も
かからず、保存もできる。そんな理由で食べ続けられてきた、いわば地域の伝統食なのである。
 先述の知り合いも、そんな背景のなかで、幼いころから食べてきたものが「名産」と言われることへの
違和感をそう表現したのだろう・・・・・
 そう言えば、そば粉をひくために村のあちこちに、また私の家のそばにもかつては水車小屋があったとか、
いまは村が経営する製粉所で大きな機械で一気に粉にしてしまう。
 いい、悪いという話ではなく、そばやおやきにもそんな歴史があるということを知ること、山里の味には
かつての暮らしがしっかりと溶け込んでいて、「おいしさ」の中にはそんなものも含まれているのだと、感じ
ながら食べるものなのかもしれない。





ついに来た
 昨夜からの雨もあがり、今日はどんな天気かなと外にでてみて、びっくり仰天・・・・・・!
何と自宅の目の前に見える中西山(1740m)の上部が真っ白。初雪である。ついに来た!
 北アルプスの山々はすでに冠雪していたが、里に近い山に降るのは今日が初めてである。
  
 村の人に聞くと、この山に降雪が3回あったら、里に積雪するとのこと、また北アルプスには7回の積雪
があると里に雪が降るとも・・・・・長年の経験からそんな予測ができるのだろう。気象学的には根拠のない
話でもここでは貴重な経験談である。信じることにしよう。
 夕方の地元のテレビでは、一斉に県下の山に初冠雪を観測したと報じていたし、観光地で有名な上高地
では、一日中雪が降り、河童橋でも積雪20センチになったのだとか・・・・・・
 冬は高い山から少しずつ里に近づいている。手ごわい「敵」がようやく姿を見せてきた。
 いよいよ「戦闘開始」である。





三尺の道
 古道を歩くイベントに参加して、いろいろ教えてもらった。その中でも面白かったのは三尺の道、祭りの辻と
いう話だった。祭りの辻・・・・・・・山の尾根道を歩いていると、急に開けた場所にぶつかる。開けたといっても
十畳くらいの広さなのだが、ここは「祭り辻」といって、近くに点在する集落の人たちが集まって神事をしたり、
  
懇親を深めたりする場所だとか、どこかの集落に集まるのではなく、尾根の両側から等距離にある尾根の上
が集合場所になる。尾根の両側に2,3戸ずつ点在しているような、小さな集落ではこうするのが一番合理的な
寄り合いの形態となる。それにしても、麓の家からはるばる山を登ってこんなところに集まるとは、交流を維持
していくのも大変であったであろう。
 三尺の道・・・・・・・江戸期には、山里に暮らす人々が生活に必要だからといって、勝手に道を作ったり、
切り開いたりしてはならなかった。藩の許可が必要だったという。それも三尺(約90cm)という道幅が決め
られていた。すれ違うことができる幅だという。ただし、こうして許可されて作った道は、藩の道にもなるので、
維持管理(これを道普請という)が村人に課せられた。結構大変な作業なので、村人たちは三尺に少し
足りない、二尺九寸にして道を作ったそうだ。こうしておけば、藩に届ける必要もないし、厄介な道普請も
ない。まさに庶民の知恵・・・・・・
 古道のあちこちに、こんな山の民の生活の足跡が残されている。それを見るのも山道を歩く楽しみである。





山が動く
 小谷村の役場近く、国道沿いに小谷村郷土館がある。郷土の歴史や民俗に関する展示物がそろっている。
 もともと古い民家を移築して、長い間村役場として使っていた建物だそうだが、今はきれいにリフォームされて
立派な資料館として再生されている。
   
 中に、「恐竜の足跡」の化石が展示されている。平成6年、小谷村北小谷の来馬層と呼ばれる地層から発見
され、岩盤に6個の足跡が確認され、小型の獣脚類(肉食恐竜の仲間)の歩行後である可能性が高いと思われる
とのこと、日本最古の年代に属する恐竜の可能性を示す足跡化石として特に貴重なものだそうだ。
 実際に見てみたが、たしかに足跡である。恐竜など絵本か、映画の世界の話だと思っていたが、こんな身近
なところにその存在を見ることができた。これも小谷村の地質、地層の特質に依る。
 調べてみると、小谷村の地質は、フォッサマグナの影響で複雑に入り組んでいるらしい。我が家のある集落は
おもに砂岩、礫岩でできているそうだ。村内には泥岩地質の場所があり、これは地滑り発生の要素をもつという。
 「山が動く」という言葉を聞いた。地質の特質から、大雨や雪解けの水を含んで表層が滑る現象だそうで、
何年かたつと山全体が少しずつ動くのだそうだ。実際に山が動いたために傾いた家屋を見たことがある。
 山が動いたので、山の上部にある畑が少しずつ広くなり、逆に下部にある畑が狭くなったという話もある。
 山が動くのを止めるために、昔は祈願文を書いた木の杭を何本も山の斜面や沢筋に打ち込んだという話
も伝わっており、その杭も資料館に展示してある。人知の及ばない自然災害には最後は神頼みとなる。
 大きな山が動くなど、平地に住んでいるととても信じられない話だが、ここにいるとよく耳にする話である。
 「動かざること山の如し」・・・武田信玄の旗印だが、ここ小谷では「山は動く」ので、残念ながら使えない。





高戸谷道
 小谷村主催の「里山紀行」に参加して、またまた山道を歩いてきた。この「里山紀行」は、年間5回、
小谷村やその周辺の古い歴史を訪ねるイベントで、郷土史家の先生が案内してくれる。送迎は村の
マイクロバスで、参加費は300円。今回はバス2台、40人の参加であった。
 今回の目的地は、信州名産「おやき」で有名な小川村にある古道「高戸谷道」・・・・・・あまりなじみの
ない名前だが説明を聞くと、中世から近代まで長野善光寺方面と白馬地方を結ぶ主要な物資の流通
経路であったという道。バスで出発地となる小川村まで運んでもらい、そこから歩きはじめる。
 道といってもそのすべてが山道である。標高800mから1000mの山の尾根を延々と辿る道で、
今は通る人はいない。いきなり急な登りになり、あらためて昔の人の苦労がわかる。
  
 何度もアップダウンを繰り返しながら、紅葉に包まれた古道を進む。道の途中には、武田、上杉軍の
戦いの前線基地となった城跡もあり、戦いに敗れた武士たちが残党狩りから逃げて身を隠したという
山もあった。こんなところに家がある!と驚くような場所に、ぽつぽつと民家が点在するが、今はその
ほとんどが空き家となって荒廃していた。
 小川村が整備のために立てている案内標識があちこちにあるのだが、すべてといっていいほど、何
かにかじられたような跡があり、郷土史家の先生が「これは熊がかじったものです。どうしてかはわかり
ませんが、人間の匂いがするんでしょうね。」・・・・・・・・このあたりは熊がたくさん生息しているところ
だとか。延々5時間、深い山の中をひたすら歩いた。到着した終点となる集落では、江戸時代の関所
の跡や廃校となった分校もあり、何よりもそこから北アルプスの山並みが一望できたことに感動であった。
 信州はまぎれもない山国であり、人々は山道を歩く以外に移動の手段がなかったということにあらためて
思い至った。そんな昔の人の健脚に敬意を表したくなる古道であった。





アルペンルート
 自宅から信濃大町までおよそ1時間、そこからさらに20分山へ向かって車を走らせると、扇沢へ着く。
 ここは「立山・黒部アルペンルート」の長野側の出発地である。観光地としては全国で五指に入る
人気のコース・・・・・今日も韓国、台湾、沖縄などからたくさんの観光客が訪れ、たいへんな賑わいであった。
  
 珍しいトロリーバス、ケーブルカー、ロープウェーを乗り継ぐと、標高2400mの富山県立山の麓、室堂(むろ
どう)に着く。途中には黒部ダムがあり、映画「黒部の太陽」(石原裕次郎主演)で有名な黒部トンネルを通過
する。わずか80mの「破砕帯」と呼ばれる断層にぶつかり、どうしても噴き出す大量の水を止められず、一時は
工事を断念しかけたと聞く。171名の尊い犠牲を出しながら湧き出す大水に苦労をしてようやく完成したトンネル
を、今はトロリーバスであっという間に通過してしまう。
 終点の室堂は一面の銀世界であった。正面にドーンと主峰立山(3003m)がそびえる。雪をかぶり、陽光を
浴びて輝く山容は、さすが「霊山」、手を合わせて祈りたくなる気持ちもわかる。
 どこかの観光ツアーのお客さんが「ここはお金を払っても来る価値があるね。」と話していた。同感である。
 間もなくここも10m近い雪の中に埋もれてしまうのだろう。
 晩秋の一日、「お金を払っても来る価値がある」観光コースを堪能した。そのお金だが、行ってみようと
思い立ったのは、今月いっぱい、長野県人は格安の割引があると知ったからだ。





大糸線
 新潟県糸魚川市と長野県松本市を結ぶJR大糸線・・・・・・新潟、長野の県境を越え、急流姫川に沿って
深い山の中を走り、白馬、大町を抜け、やがて安曇野に至るローカル線である。
 今年で全線開通50周年を迎えるとかで、記念のイベントも行われている。
  
 最近知ったのだが、この大糸線、小谷村の南小谷駅から南と北で、管轄する会社が違う。南側、つまり
松本側はJR東日本、一方新潟側はJR西日本・・・・・東日本側は電化され、特急「あずさ」も南小谷駅まで
乗り入れている。しかし、新潟側は電化はされず、ディーゼル車が走る。古いトンネルが多く、電線を設置
すると高さが足りなくて電車が走れなくなるとのこと。
 村の歴史を探ると、過去に何度となく洪水や地滑り、雪崩などで寸断されて不通になったが、地元の人々の
努力で復旧をしてきた路線だとか。おそらく経営的には苦しい赤字路線だろうが、道と同様、信州と日本海を
結ぶ大切な幹線、ぜひ存続をしてほしい。特に小谷から新潟側は、川に沿って走るので、沿線の景色が抜群
だと聞く。まだ乗っていないので、近いうちにぜひ一度乗ってみたいと思っている。





観音像
 集落のあちこちや、村の中の道の脇、塩の道の路傍に観音さまの石仏を多く見かける。聞けば小谷村は
石仏の数で全国有数を誇る村だとか・・・・・
 観音像は2種類、一つは「馬頭観音」、もう一つは「大日如来」、前者は大切に飼っていた「馬」を悼むもの、
後者は「牛」を弔うもの・・・・・つまり農耕用の牛馬や塩の道で輸送用に使った牛馬の死を悼んでつくられた
ものである。特に塩の道では、病気で倒れる牛馬、足を踏み外して崖から落ちる牛馬が多く、いつくしんで
きた彼らを供養するために建てられたものだという。
  
 小谷村では、塩の道で活躍したのは牛がほとんど(牛はひづめが二つに割れていて、坂道で踏ん張りが
きく、狼に襲われても5,6頭の牛は協力して狼と戦うから)で、馬は主に農耕用であったという。
(隣の白馬村では、道が平坦なため、塩の道の輸送に馬が多く使われ、馬頭観音像が多い。)
 牛がなぜ「大日如来」なのかと聞くと、大日如来は牛に乗ってやってきたからなのだとか。
 人間と同様に、牛馬の死を悼み、供養塔を建てる心情の中に、厳しい生活や労働をともに支え、生きてき
た彼らを、家族の一員のように思ってきた先人たちの優しさがしのばれる。
 集落の古い墓地に行くと、名前の刻まれた人間の墓石の横に、決まって「馬頭観音」の石碑が建っている。
荒れた土地を耕作するのに、馬はなくてはならない労働力であったのだろう。
 街ではまず見かけなくなったこんな石仏が、さりげなく静かにたたずむ山里である。





古道走破
 太古の昔から昭和の戦後まで、日本海側の越後(糸魚川)と信州(松本)を結ぶ主要道であった「千国街道」
を歩いてみようという企画に参加をした。いわゆる「塩の道」である。
 中でも、平坦地が少なく、急流で知られる姫川が流れ、地すべりや雪崩が多発し、深い山に囲まれた小谷村
を通る道は、いくつもの急峻な峠を越える難コースであったという。現在、5つのコースが整備され、往時のまま
の姿で残されている。今回のコースは、それらとは別に、江戸の元禄期まで主に使われていたコースで、まだ
完全に整備の済んでいない、いわば「手つかずの古道」だとのこと・・・・・
 地元の塩の道ガイドさんが3名、郷土史家のT先生を中心に総勢25名、今は廃村となった山奥の村から
出発をした。昔は何軒もの家があったという集落跡も、今は草に覆われて跡形もない。かろうじて残る道の
痕跡を頼りに、ひたすら峠を目指した。かつて、ここを5,6頭の牛をつないで牛方さんたちが往来した姿を
イメージしながら、よくぞこんな道をあるいたものだ、と感動である。
  
 途中で、ガイドさんや先生がその場所や遺物の説明をしてくれる。信越放送というテレビ局から3名の
スタッフも同行し、12月に全国放送する番組になるそうである。
 峠を越えたところに、かつて牛方さんや歩荷(ぼっか)と呼ばれる人足たちが止まる宿があったが、文政7年、
(1824年)後ろにそびえる山から突然大雪崩が発生して、泊っていた22人が亡くなるという事件もあったと
聞いた。かの有名な良寛和尚もこの道を通ったのだとか・・・
 延々7時間・・・・ひたすら山の中を歩いた。参加した人の平均年齢は60を超えていただろう。他の人に
迷惑をかけてはいけないという一念だけで、なんとか走破することができた。
 千国古道・・・・・いにしえの匂いがすがすがしく身を包んでくれたすばらしい山道であった。
悲鳴をあげる寸前のわが足に感謝、である。





紅葉狩り
 世はまさに紅葉の季節・・・・・・全国のいたる所で「紅葉狩り」が最盛期を迎えている。さて、よく耳に
するこの「紅葉狩り(もみじがり)」と言う言葉は、ここ信州の戸隠が発祥の地であるという説がある。。
 「紅葉伝説(鬼女伝説)」という、能や歌舞伎、絵画の材料にもなった有名な話が元になったもの・・・
 戸隠では、今でも「鬼女紅葉祭り」を10月に行っている。
        
・・・・・・・・(紅葉伝説)
 平安の昔、承平2年奥州の会津に生まれた少女呉羽(くれは)は子の無かった夫婦が魔王に願って生まれた
ためか、輝く美貌と才知に恵まれて育った。やがて紅葉と名を改めた彼女は、両親と共に京の都に上り美しい
琴の名手として都中の評判になり、源経基公の寵愛を受けるようになった。
 しかし紅葉は正妻を呪術で除こうとして事が露見し、信州戸隠山へ流されてしまうが、都への思いが断ちが
たく、配下を集めて戸隠や水無瀬(現・鬼無里村)を中心に力を貯えるようになった。
 これを聞いた朝廷では平維茂(たいらのこれもち)を追討に差し向けたが住み家も分からず、神に祈って
矢を放った維茂は落ちた方角に進んだ。待ち構えていた紅葉達は美しく装って毒の酒をすすめたところ、
高僧から宝刀をもらっていた維茂に見破られ、あえなく討ち取られた。紅葉33歳の晩秋であった。・・・・・・・
                                     (戸隠観光協会HPより)
 「紅葉狩り」とは、平維茂が鬼女紅葉を討伐(狩る)するところから生まれた言葉・・・・・・という話には
説得力がある。「狩る」という言葉には「集める」という意味もあるので、言葉どおり紅葉した木の葉を
拾い集めて楽しむ・・・という意味でもあろうが、私には「紅葉伝説」の方が心に響く。
 絶世の美女であったという紅葉の美しさを、あの木々の彩りに重ねて見ていると、尾根一つ向こうの
戸隠・鬼無里(きなさ)で何百年も前に繰り広げられた出来事が、どこか現実味を帯びて感じられる。





毛皮
 「もし使われるなら、置いていきますよ。」・・・・・・・・今の家を譲っていただいた前のオーナーが、座敷の
囲炉裏のまわりに広げてあった「熊の毛皮」と「カモシカの毛皮」がほしければ譲ると言ってくれた。
 熊もカモシカも、まるまる一頭分の立派な毛皮であった。よく見ると、両方ともさすがに頭部はないものの、
足の爪が見事に生々しく残っていた。そんなものを今まで見たこともなかったし、爪があまりに生々しかった
ので、思わず「いや、いりません。」と断ってしまった。
 ところが、最近になって、村の中にある「道の駅」に立ち寄ると、壁に熊やカモシカの毛皮が売り物として
展示してあるのを見つけた。驚くのはその値段・・・・!
 なんと、熊は30万円、カモシカは15万円・・・・・・合わせると45万円なり。
しまった!あのとき「はい」と言っておけば今頃は・・・・・・・・・・・あとの祭りである。
 ものの値打ちがわからないというのは、こんなことを言うのだと、大いに反省である。
 熊もカモシカも保護動物なので、勝手に捕獲してはならない。何かの理由で許可を得て捕獲した熊や
カモシカを、このような毛皮にするには大変なわざと労力がいるのだとか・・・・・高い値段がつくわけである。
 まぼろしとなった毛皮が、時折夢にでてくる。




除雪
 村を走る国道沿いに、除雪機の格納センターがある。先日から、今まで格納されていた大型の除雪機
が外に出してある。点検をして、いつでも稼働できる準備をするためだ。
 前の冬は記録的な少雪で、村の人もずいぶん助かったそうだが、例外もある。村の委託を受けて
県道や村道の除雪をする人に支払われる「除雪費」が、極端に少なかったこと・・・・・・
   
 冬の間の大事な収入源として予定していたのに、例年の半分程度しか出動回数がなかった、と知り合いの人が
話してくれた。一回の出動でいくら、と決まっているそうだ。
 大型のブルドーザーのような除雪機が、朝5時前から家の前の道を何度も往復する。大変な作業である。
 道路に10cmか15cm積ったら、何度でも出動しなくてはならないそうで、ひどいときには、一度除雪をしても
すぐに新しく積もって、何度も往復をすることがあるのだとか・・・・・・・
 積雪は少ないに越したことはないが、ここ雪国では、積雪に期待して生活をしている人たちもいる。村に三つ
あるスキー場も、十分な積雪がないと死活問題となる。スキー場での雇用が村人の冬の生活を支えている
からだ。美しい自然の景色にあこがれてたくさんの観光客がやってくるが、その裏では日々雪との格闘が
行われている。今まではお客さんであった私だが、今年からは雪と向き合う冬を迎えなくてはならない。
 「心配はいらねぇ、雪ハネはおらたちも手伝ってやるだで・・・・・」村の人にそう言ってもらって、心強いが、
相当の覚悟がいることだけは忘れないようにしたいと思う。





お誘い
 「塩の道を歩きませんか?」・・・・・・突然我が家の電話が鳴った。かけてきたのは、白馬、小谷周辺の
郷土史家として有名なTさん。面識はないのだが、奥方の絵手紙教室の友人が推薦してくれたとのこと。
 聞けば1泊2日で、「千国街道」と呼ばれる古道を歩き、歴史について学習する催しだとのこと、
ちょっと迷ったが、これも勉強、申し込むことにした。
 案内には行程が書いてあり、これは明らかに「健脚向き」コース・・・・・・・
  
塩の道紀行第3回
粟峠越えと戸倉山登拝

11月4日(日)、5日(月)

信越国境付近の峠越え。雨飾山が眼前に広がり、ブナの林や美しい池を巡る。途中、粟峠(松本藩主巡検の道)・角間池・白池(静寂と湖面に映える景観)・戸倉山(360度の大展望)・木地屋(木地師の里)・大所(雨飾山の景観)
【行程】1日目:約8,2キロ。宿…横川〜殿行〜粟峠〜角間池〜戸倉山〜白池…根知…宿・交流会。
2日目:約5,2キロ。宿…木地屋〜大所〜宝生〜ニカイ〜平岩…宿(入浴・昼食)解散。
【料金】大人17,000円(1泊3食)
【宿泊】 姫川温泉「白馬荘」
(塩の道学習会)
 この千国古道は、古くは大和朝廷の官道として整備され、戦国時代は武田、上杉の争いの中で幾度も
使われ、江戸時代の元禄ごろまで信濃と越後を結ぶ、主要道であった。その後、別のルートが開拓され、
次第に使われなくなった道でもある。
 以前から興味はあったのだが、最大の問題はこのコースの設定が「健脚向き」だということ・・・・・・・・
注意書きにも「軽装はだめ、しっかりした登山装備で。」とある。7,8時間は延々と山の中を歩くわけで、
ちょっとハイキング・・・というレベルではない。果たして体力がもつかどうか・・・・・・
 その昔、背中に荷物を乗せた牛たちが歩いた道である。何とかなるだろう、そう覚悟を決めての参加となる。





紅葉
 山里は今紅葉の真っ盛りである。ほんの少し前までは、高い山の上の方が赤くなったな、と思って
いたら、いつの間にか里にも降りてきている。
 日一日、赤や黄色やオレンジの色が濃くなり、あっという間に山を染める。このあたりの山は
急な斜面が多いので、九州のように杉の植林をあまりしていない。そのため、落葉樹が自生し、
春は新緑、秋は目の覚めるような紅葉を楽しませてくれる。
 あまりの見事さに見とれていると、「きれいだとは思うだども、もうすぐ雪がくる合図だで・・・・。」
村の人がそう話してくれた。浮かれている場合ではない、と教えてくれる。
 風が吹けばまるで木の葉のシャワーのように上から降ってくる。そうやって木々が葉を落とすと、
まもなく雪が来る。名所でもない山里が、こうして彩り鮮やかに化粧をして見せてくれるのは、
やがて来る厳しい冬を耐えて乗り切ろうとする村人への、神様からのささやかなプレゼントである。





金八先生
 最近、テレビで「金八先生」シリーズの続編の放映が始まった。
 金八先生こと、武田鉄矢君は私の学生時代の同級生である。教育実習では同じクラスに配属になり、
  
                                      小谷温泉
1ヶ月間、ともに6年生の子ども達を相手に悪戦苦闘した。「すまんが金を貸してくれ。」・・・・人の顔を見ると
すぐにそう言うのが口癖の彼に、なけなしの金を貸してやった。そのほとんどは実家のたばこ屋から
持ち出したタバコで返してくれたが、まだ未回収金が2000円残っている。有名な彼のお母さんがつくった
特大の日の丸弁当を、学校の図書館の本棚の後ろに隠れて二人で食べたこともあった。
 指導教官の家で酒をごちそうになり、酔いつぶれて朝まで二人で玄関に寝てしまったこともある。
 その武田君、何かの番組で「小谷村にいい温泉があるんですよ。」と話しているのを聞いた。
仕事でこちらに来た時に泊まったという、その温泉は、「小谷温泉」、古い歴史を持つ温泉宿で、
百名山で有名な深田久弥氏も何度も足を運んだところ・・・・・・・
 本物の先生にはならなかった彼だが、金八先生という役で、立派な先生になってしまった。
 武田君、小谷にもう一度、来てみませんか。





車庫証明
 他県に住居を移したら、運転免許証の住所変更届けとともに、自動車の登録変更をしなければ
ならない。各県に2,3か所ある「運輸支局」か「自動車検査事務所」というところへ行って、必要な
書類を作って提出することになる。これまでそんな面倒な手続きは車を買った店がやってくれて
いたので、まったくノータッチ・・・・・・しかし、今回は自分でやるしかない。
 まず、管轄の警察署にいって、免許証の住所変更届け、これはすぐに終わった。次に車庫証明
の取得・・・・「あのう、引越しをしたので車庫証明を取りたいのですが・・・・」「はい、住所はどちらで
すか?」「小谷村です。」「小谷村?ああ、なら車庫証明はいりません。」「えっ?いらない?」
 驚いた。小谷村は書庫証明の必要ない村だったのだ。軽四輪車なら聞いたことはあったが、
れっきとした普通車である。思うに、車庫証明など取らなくても、みんな車庫を持っているし、
路上駐車などしなくても、空地はたくさんある。おまけに冬の積雪で、道に車を止めておくと、
雪に埋まってとんでもないことになる。だから必要なし・・・となったに違いない。
 というわけで、あとは登録の変更とナンバープレートの変更である。松本市まで2時間かけて
出かけた。カーナビで必死に探し、ようやくたどりつき、必要な手続きを済ませ、新しいナンバー
を手に入れた。やれやれという思いであったが、真新しい「松本ナンバー」を見て、ようやく長野県
の一員になれた・・・そんな実感がわいてきた。それにしても、車庫証明不要とは・・・・・・参りました!





野鳥
 名前はまったくわからないが、家のまわりにたくさんの野鳥がいる。(春にはツバメが我が家の軒下に
巣をつくり、ヒナも無事にかえったのだが、へびにやられてしまった。)
 何とかあの小鳥たちを間近で見てみたいと思い立ち、庭に小鳥用の「えさ場」を作ってみた。
  
 水とえさを用意しているが、今のところ食べに来た形跡はない。「ありゃなんずら?」と村の人に
聞かれたので、「小鳥を見ようと思っているんです。」と話すと、「ああ、当分こねぇだろうな。今年は
山にえさがうんと実ってるで・・・・」がっかり・・・・・・・
 しかし、山の木の実がなくなる11月の終わりごろには、来るかもしれないと話してくれた。変なことを
するやつだと思われたに違いないが、まあ、いいではないか。
 こんな広い山里でも、我が家の人工えさ場にわざわざやってくる、モノ好きな小鳥もきっといる・・・・
そう信じてしばらくえさを与え続けてみようと思っている。
 冬、雪が降りだしたら、動物の餌付けにも挑戦だ。鳥や動物と心を通わせる・・・これも仙人になる
ための大切な修行である。





初仕事
 集落では毎月24日、全員が集まっての「常会」(寄り合い)が開かれる。集落の一員になったというので、
公民館のカギ係りが回ってきた。24日の夜、寄り合いの前に会場へ行って鍵をあけ、座布団や机を準備
するという仕事だ。1か月交替で参加すると決めた我が家では、前月は奥方の参加であった。、
 8時から開会なので、7時30分に鍵あけにいけばよいと思ってゆっくりしていると、突然村の人がやって
きて、「今月はおめぇさんとこが当番ずら?」・・・・・・「えっ?8時からじゃないんですか?」「今月から7時
半になっただよ」・・・・あわてて鍵をもって公民館へ急ぐと、すでに何人かの人が待っている。
しまった・・・・・・大失敗である。聞けば先月の寄り合いで、10月からは開会を7時半にすると決まった
とのこと、奥方は平謝り・・・・・・
 何とか許してもらった常会だが、今月の議題は来年度の村の役員選出・・・・・・・少し早い気もするが、
これがここの通例らしい。限られた人数で多くの役を回すので、何度も回ってくるらしい。
 「来年は衛生組合長をお願いします。」・・・・・突然の指名で驚いたが、私に与えられた初の仕事である。
聞けば、ごみステーションの管理や年に1,2度回ってくる物品販売のお世話だということ、大役でなくて
ほっとした。一人で何役も受け持つ人もいる。こうした集落の役を回せなくなった村が増えているのだとか、
私のような新参者でお役にたてるのなら、何も異論はない。任期は2年。
 集落の仲間に入れてもらっての初めての仕事は大失敗・・・・・しかし、小さな仕事でも与えてもらえた
という事実がうれしい。集落の一員として認めてもらえた、というささやかな喜びを記憶に残しておきたいと
思う。





楢山節考
 1983年に今村昌平監督で制作された映画「楢山節考」・・・・・・
 カンヌ国際映画祭で受賞した名作である。うば捨て伝説をもとに、信州の寒村を舞台に繰り広げられる
人間模様を描いた作品で、私も2回ほど見た。原作は深沢七郎。
 舞台となった寒村の背景に、雪をかぶった北アルプスの山々が映っていたのを覚えている。
 実はこの映画、ロケ地となったのは小谷村だとのこと。村の山奥に今は廃村になった集落があり、
 そこがロケ地となったそうだ。車は入れず、1時間以上歩いてようやくたどりつくという辺境の地である。
 残念ながら、私はまだ行ったことはないのだが、秘境と呼ばれる集落があることは知っていた。
今も茅葺の家屋がいくつか、当時のままの姿で残っているという。今から20年以上も前に作られて
いる映画なので、様子は少しちがうのだろうが、写真で見る限り、映画と同じ雰囲気が伝わってくる。
 うば捨ての伝説そのものは実際の話ではないそうだ。(そんなことを当時の藩主が許すと首が飛ぶ)
 しかし、貧しい暮らしを維持するために、口べらしはあったそうで、当時の農村の厳しい暮らしの中
からこんな伝説がうまれたのだろう。
 今村監督がどんな経緯でこの集落を見つけたのかはわからないが、少なくともロケ地としては
最適であったと思う。セットでは出せない臨場感が映画を見ると伝わってくること請け合いである。
日本にもまだこんな田舎があったんだ、とストーリーを離れて感動した記憶がよみがえる。
 今は知る人も少なくなった古い映画だが、私の中では今でも鮮烈な印象とともに残っている。






江戸弁
 同じ集落に、10年前に東京から移ってきて住み着いた先輩がいる。村の寄り合いで、いち早く仲良しに
なって、しきたりや家の名前などを親切に教えてくれた人だ。二人で話しているとき、この地方の方言の
話になった。先輩いわく、「この辺の言葉は江戸弁ですよ。」・・・・・・・・・・
 なるほど、なんとなくそんな気がしていたのだが、そう言われてみると、テレビの時代劇などでよく耳に
する江戸弁に似ていることに気がつく。
・・・・・○○できねぇ、知らねぇ、おめぇさん・・・・・、何だか江戸っ子と話している錯覚におそわれる。
 江戸弁がどういう経緯で成立したのか、詳しくないが、江戸が新興都市であったというから、ひょっと
すると、もともと信州の言い方であったものが、江戸に移り住んだ信州人によって広がったのかな、などと
考えてしまう。明治になって、長州(山口)の言葉が「標準語」の基礎になったという説に似ている。
 いずれにせよ、村の人との会話にもあまり違和感はない。もちろん当方が使うにはちょっと抵抗がある
ので、未使用だが、いずれ私も・・・・できねぇ、などとしゃべっているのかも知れない。
 間違いなく起こっている変化は、長い間親しんできた九州弁、特に博多弁を夫婦の間でもあまり使わなく
なってきたこと・・・・・・何となくここの風土には博多弁はそぐわない、ということを肌で感じてきた。
 言葉は、その土地の風土によって育まれる・・・ということを実感し始めてている。




先人
 我が家の畑のすぐ下に、苔むした墓石群がある。大きなケヤキの木の下に、四つが整然と並んで
立っている。墓石に刻まれた名前は既に風化して読めないが、横に彫られた年号はかろうじて
判読できた。驚きの出会いであった。
「慶応」「嘉永」「天保」「弘化」・・・・・・・・・1800年代の中頃から終り頃、江戸時代の後期の年号
で、ペリーの黒船が日本にやってきたころである。どんな人がここに眠っているのか、彼岸のころに
お供えがあったので、この集落のどこかの家の先祖なのであろう。こんな山深い里で、幕末の動乱を
どう受けとめて生きていたのか・・・・・村史には、黒船来航に備えて各村へ沿岸警備のための
動員命令があり、何十人かが浦賀まで出かけた、と記されている。あるいはここに眠っている人も
出かけたのかも知れない。
 草に囲まれ、集落全体を見下ろす丘の上に静かに眠る先人の墓に、思わず手を合わせていた。
「新人です。お世話になります。」・・・・・・・わずか20戸足らずの山奥の集落で、田や畑を開墾し、
激動の時期を生きてきた、顔も名前もわからない先輩たちに、あいさつをすべきだと、素直に思えたから・・・・
 集落のあちこちに、こうした古い墓地があり、村の人は自家の墓石ではなくても、周辺の草刈りは
怠らない。まさに「土に還る」・・・・・・・・そんな言葉が自然に胸に落ちるたたずまいである。





水抜き
 最近自宅から少し下った集落の中で、何やら工事が始まった。道や家を直すという工事ではなさそうだ。
大型の重機やトラックが運び込まれ、大がかりな工事であることはまちがいない。
 工事の内容を示す看板を見た。
「山の中の水を抜いています」「荒れた沢を直しています」・・・・・・ともに「地すべり対策工事」だと書いて
ある。小谷村には広い平地が少ない。ほとんどの集落は斜面にあり、大雨で土砂災害がいつも心配
される地域である。山の中の水を抜く・・・・山に降った雨が地下水となって地下を流れるが、うまく
流れずに地下に溜まってしまうことがあるという。特に山の斜面などでそれが起こると、貯え切れなく
なったときに、一気に崩落してしまう。そうならないためには、斜面の通水性をよくしておかなければ
ならない。沢を補強するのもその一つ。それが「水抜き工事」である。
 小谷村の中を車で走ると、いたるところでこの工事を施したという看板を目にする。傾斜地の多い
山間部ならではの工事だが、山を守り、人々の安全を守るためには不可欠な工事である。
 街にいるときは、「地すべり」などという言葉はどこか遠い世界の話だと思っていたが、ここでは
日常生活の背中あわせの大切な問題であった。





豪雪
 集落の家々に、見慣れない通路が出現した。道から直接家の2階に入れるような「橋」ができている。
  
「これは何ですか?」・・・・村の人に聞くと、「ああ、あれかね、雪で家に入れねぇときに、あれで2階から
入るだ。おめえさんとこにもあるはずだ。」・・・・・つまり、積雪で1階から出入りできなくなったときの、非常
出入り口というわけだ。我が家にもある?と聞いて早速見てみると、確かに2階のその部屋だけ窓が大きく
なっていて、外の壁に橋を取り付ける工夫がされている。
 ということは、冬は1階はほとんど雪に埋まってしまうということ、なるほど、と納得である。
確かに、昨年まで冬に来てみると、1階のひさしのあたりまで雪が積もって、放っておけばおそらく1階から
の出入りはできない。おまけに、屋根に積もった雪も落ちてくるので、この橋がないと、困るということは
理解できる。豪雪地域ならではの家の造りである。
 できることなら、こんな橋を通らなくてもいいように願いたいが、何年かに1度やってくる「大豪雪」の時は
我が家もこの橋をかけなくてはならないかもしれない。
 折しも、先日北アルプスは完全に冠雪・・・・・これが根雪になるだろうという話である。
 冬を迎える準備が進んでいる。





初雪
 14日、北アルプスの3000m級の山々に初雪がふった。地元のニュースで、白馬岳の山頂にも
約3cmの積雪を観測したと報じられた。いよいよ冬の到来である。例年より何日か早い初雪だそうで
ある。南米ペルー沖の海水温の異常で起こる「ラ・ニーニャ現象」がまだ続くとかで、北国には雪が
降りやすい冬になるのだとか・・・・・・・・村の人たちとの話の中にも、今年の積雪に関する話題が
出始めた。前の冬は記録的な少雪で、屋根の雪下ろしを一度もしなかったという。こんなことは
村の歴史が始まって以来のことだそうだ。しかし、その反動が怖い。今年はきっと・・・・・・・・
 山に雪が降りだすと、村の人たちは冬支度を始める。畑の後始末、家の周りの片づけ、車庫の
整理、除雪機の点検・・・・・・・我が家も周りの人たちの動きを見習いながら、ぼちぼちと準備を
始めている。降ってもらわないと困る雪ではあるが、降りすぎても困る。さて、今年の冬将軍は
どんな選択をするのか・・・・・・





りんご
 その産地にいけばごく当たり前に見られる風景がある。信州はりんごの産地・・・・・・・・豪雪地域を
除けば、いたるところにリンゴが実っている。今がちょうど収穫の時期・・・・・・
  
 手を伸ばせばすぐに触れるところに、赤いりんごがたわわに実り、リンゴの木など見たこともない者に
とっては驚愕の風景である。九州ではちょうどこの風景は「みかん」に相当する。
 普段から見慣れているので、みかんがこのように実っていても別に感動をすることもない。信州の人
にすれば、こんな風景も普通に見られるもの、さして感動するほどのものでもないのだろう。
 みかんにしろ、りんごにしろ、育てるにはそれなりの苦労や労力を要するもの、農家の人の願いを
ぎっしりつめこんだ実が、道行く人の目を楽しませてくれる。





古戦場
 自宅から車で約1時間、長野市の郊外に「川中島八幡原古戦場」史跡がある。
今大河ドラマで放映中の「風林火山」で、武田信玄と上杉謙信が5度の戦いを行った川中島の
古戦場である。今年は大河ドラマの影響で、訪れる人が例年になく多いのだとか・・・・・・・
 ここは信玄が本陣を置いた場所で、この銅像で有名な二人の一騎打ちもこの場所であったという。
 双方合わせて8000人の死者が出たそうで、この像のすぐ横に当時、信玄の部下であった高坂弾正
という武将が兵士たちの亡骸を、敵味方の区別なく葬った塚が残っていた。
 そのことを聞いた謙信が義を感じ、のちに塩の流通を止められ、難儀をしていた武田側に塩を送った
そうだ。史跡公園の中では、ボランティアのガイドさんが詳しく説明をしてくれていたので、そのガイド
さんについて歩いてみた。いろいろと知らないこともあり、いい勉強になった。ここから少し離れた所に
山本勘助の墓もある。ガイドさんいわく、「あちらに銅像がありますから、どうぞ。」・・・・・・・
 450年前、信玄も謙信もまさかのちの世に、自分たちがこんな銅像になって、ダジャレの材料に
なっていることなど、夢にも思わなかっただろう。
 つわものどもが夢の跡・・・・・まさにここは歴史の足跡が心に残るところであった。





秋の味覚
 生まれて一度も「マツタケ」を食べたことがないという奥方に、腹いっぱいマツタケを食べさせてやろう、と
長野県上田市にあるマツタケ園にでかけた。今年は夏の猛暑で生育が例年の3割くらいだとか・・・・・
 近づくにつれて赤松の林が見え始め、「ありそうだな・・・」と感じさせる。
 私の育った山口県もマツタケがとれていた。中学生のころは近くの赤松の山でとれる「水晶」を探しに
いったついでに、ポケットいっぱいになるまでマツタケをとって帰っていたものだ。
 そのころは、秋の味覚ではあったが、まだそんなに希少価値のあるものではなく、値段も手ごろであった。
 さて、目的地に到着してさっそくいただいた。私自身も加工してない、生のマツタケは40年ぶりである。
  
 鍋、茶碗蒸し、ホイル焼き、天ぷら、すがた焼き、マツタケご飯、吸い物・・・・どれも生のマツタケがふんだんに
入っていて、口の中いっぱいに豊潤なマツタケの香りが広がる。
 さすがの奥方も「もう食べられない・・」とギブアップするほどの量であった。
「もう当分マツタケは食べなくてもいいね。」と話しながら帰途についた。昔、マツタケの人工栽培法を見つけたら
ノーベル賞ものだ、と聞いたことがある。他のキノコと違って、さほどに栽培がむずかしいマツタケである。
 子どものころに、見つけてポケットに詰め込んだなつかしい記憶とともに、今年の秋は忘れられないものに
なりそうだ。





小谷温泉
 朝から部屋の片づけに取りかかり、ようやく一息ついた。「温泉にでもいってみるか・・・・」ということになり、
 集落からは尾根一つ向こうの、標高1000mにある「小谷温泉」に行くことにした。ここは昔から
   
武田信玄の隠し湯だということで、ずいぶん古い歴史を持つという。目指すはその中にある、村営の露天風呂。
ここの魅力は露天であるということと、入浴料が無料だということ。もちろん源泉かけ流し・・・・・・・・・・
 山道を車で走ること15分、目的地に到着。
 お客さんは2,3人、聞けばすぐ近くにある百名山の雨飾山に登ってきたという。
 ナトリウム・炭酸水素塩泉で、わずかながらヌルヌル感のある、さっぱりとしたお湯である。
 ようやく始まった紅葉の木々からこぼれる木漏れ日を浴びながら、しばし絶景の露天風呂を満喫した。
 小谷村にはまだほかに10ヶ所ほどの温泉がある。まだ全部には行っていないが、せっかくの大地の恵み、
これからゆっくりと味わっていきたい。それにしても「無料」とはありがたい。
 管理をしてくださっている方に感謝・・・・・・






ミゾソバ
 1年中草に覆われていると思っていた山里だが、注意してみると四季折々、いろんな野草が可憐な
花を咲かせている。最近我が家や近くの山野を埋め尽くしているのは「ミゾソバ」・・・・・・・
 
 街にいたころは、「雑草」として引き抜く対象の草であった。水分の多い土を好み、繁殖力が強く、
厄介な雑草であった。しかし、この山里ではその繁殖力の力で驚くような生息範囲を得ている。
 切り花にして花瓶にさしているが、もうかれこれ1か月、まだ枯れない。それどころか、切り口に
白い新根が発生し、しぶとく花瓶の中で生きている。まさに「雑草の王」と呼ぶにふさわしい。
 今咲いている花は、薄いピンクの、まるでお菓子の「コンペイトウ」のようなかわいいもの・・・・・
 1本や2本なら即座に引き抜かれるのだろうが、これほど広範囲に密生してくると、もう1つの
景色となる。秋の深まりとともに、葉は黄色く色づき始めたが、花はまだ頑張って咲いている。
 本物の「ソバ」の花があふれる、こんな山里で、本物に一歩も引けをとらずに咲き誇るミゾソバ、
あっぱれな生きざまである。




寺子屋
 集落のある谷筋の上り口に、以前から気になっている石碑がある。
 「筆」と書かれた碑文が何を意味しているのか、早速「小谷村史」で調べてみた。
 明治の学制が始まる前、江戸時代の庶民の学校は「寺子屋」と呼ばれる「私塾」であった。
近所の教養のある人が、子どもたちを集めて手習いやそろばんを教えたものだが、その教え子
たちが、師が亡くなったあとで感謝の気持ちをこめて顕彰するために建てた「筆塚」という石碑
だということがわかった。小谷村の中にも、現在もいくつかの筆塚が残っているという。
 この筆塚の先生といっしょに、当時の子どもたちはどんな様子で勉学に励んだのだろうか・・・・
 こんな山深い里にも、志篤い先人がいたということ、そして師の教えを忘れず、感謝の気持ちを
持ち続けた教え子たちがいたこと、なんだか嬉しくなってくる。
 明治のはじめころに建てられたという、この筆塚、もしかするとこの塚のある家が、当時の寺子屋
だったのかも知れない。いつか機会があればぜひお話を聞いてみたいと思う。





ぼろ織り
 初めてその名前を聞いたときには、何のことだかわからなかった。村の中にある「道の駅」に立ち寄った
ときに、その現物をみた。どう見ても立派な織物なのに、どうして「ぼろ」と呼ぶのか・・・・・・
 やがて、それは古くなった着物などを細く裂いて機織り機で編んでいくから「ぼろ織り」ということが
わかった。できた作品はとても古い着物などからできているなどとは信じられない、しっかりした作りで、
色もカラフルで、部屋のインテリアには持ってこいだと思われる。
   
 最近、道の駅でこのぼろ織りを買い求めたのだが、ラベルに見覚えのある製作者の名前を見つけた。
それは、私の住む集落にいるおばあちゃんの名前であった。「まさか・・・・あのおばあちゃんがこれを?」
 野菜の作り方や花の作り方をよく教えてもらうおばあちゃんで、高齢にもかかわらず、毎日畑仕事に
精を出している人だ。詳しく調べてみると、このおばあちゃん、実は小谷村でも指折りのぼろ織り名人
だそうで、若い人たちにぼろ織りの技を教えている、有名人なのだそうだ。
 先日、おばあちゃんにこのことを聞いてみた。「・・・・・ああ、ぼろ織りかね。最近目が悪くなってもう
だめだわ。近所にも作っている人がいるで、教えてもらったらいい。」という。
 この集落には、どこの家にも機織り機があって、みんな熟練した技の持ち主なのだとか・・・・・・
 それを聞いた奥方の目が光っている。そのうち挑戦したい、と言いだすのだろう。
 今は観光みやげになっているが、昔はそうやって作り直した服をみんな着ていたのだそうだ。
 トンカラリン  トンカラリン・・・・機織りをするおばあちゃんの姿は、まるで昔話の絵本の世界である。





堰(せぎ)
 集落にも小さいながら田んぼが点在する。もちろん山の中なのでほとんどが「棚田」である。
この棚田に使う農業用水は「堰(せぎ)」と呼ばれる用水路から入れられている。
 川はあるのだが、集落のはるか下を流れていて、とてもここまで汲み上げたりすることはできない。
 土地は肥沃だが、水がないため、飲用水の余りなどを用いてわずかに稲作をしていたのだが、
ほとんどの村民はヒエ・アワなどを食用として生活していたという。
 この窮状を見かねた小右衛門、又三郎という二人が、何とかして集落の下を流れる川の上流から
水を引いて灌漑にあてたいと思い立ち、江戸時代(安政6年)、近くの村々に呼びかけ、灌漑用の
用水路(堰)掘削の願いを領主に願い出た。
 願いを聞き入れた領主は、奉行を二人派遣し、各村の庄屋に命じて村中全部に夫役として出動
させ、安政7年8月に工事に取りかかった。人夫の大部分は山中に小屋を建て、そこに寝泊りをして
わずか1週間で8キロに及ぶ灌漑用水を作り上げたという。
 白馬・小谷地方で初の灌漑工事であったという。その後、この堰は代々村の人々に受け継がれ、
大切に守られてきた。もちろん現在も現役の用水として活用されている。
 毎年春には、村中総出で8キロに及ぶ堰の草刈りを集落で分担してやっている。及ばずながら
私も参加させていただいた。その後、村で「堰を歩こう」というウオーキングイベントも催され、これ
にも参加させてもらった。
 村の人に聞くと、今は太い鋼製の埋め込み式パイプになったが、以前は小川のような川であった
ため、毎冬の積雪で何度も決壊したり、流木が詰まったりで、大変だったとか・・・・・・
 何百年も前、この地に水を引くために苦労した先人たちがいた。その恩恵を当然のように甘受して
いては申し訳ない・・・・素直にそんな気持ちになれる山里である。





雪形
 小谷村のとなりに「白馬村」がある。「はくば」・・・・・なんといい響きだろう、粋な名前をつけたものだ、
と以前から思っていた。村名の由来を調べてみると、北アルプスの「白馬岳」からとられたものだとわか
った。白馬とは、春に山の雪がとけて地肌が出てきて、それが「代かき馬」に見えたことが出発らしい。
 この雪形が現れると春の田起こしを始めるという農作業の目安になった。
   
 白馬岳の近くに、標高2814mの「五竜岳」がある。こちらも雪形から名前がついた山だとわかった。
 雪形が、武田氏の家紋「武田菱」に見えることから、「ごりょうだけ」と呼んでいたのがはじめだとか。
   
(写真と図はさんから借りています)
 自然の中に生活や仕事のサインを見つけて、それに従って生きる・・・・・今のような情報など手に
入れることのできなかった昔の人々の知恵である。
 来年の春は自分の目で、ぜひこの雪形をみてやろうと決めている。





冬がくる
 買い物に出かけようと、山道を下っていると、突然道の端から一匹のリスが飛び出してきた。
 大きな尻尾をピンと立て、周囲をうかがうようなしぐさをして草むらの中へ消えていった。
 村の人も「リスかね、ああ、よく見かけるだよ。ここらはクリやドングリがたくさんあるで、住み
ついているだ。」と言う。夏の間はほとんど見かけないが、秋になると出てくるという。
 人間の世界ではこの時期を「秋」と呼んで、紅葉やキノコなどを楽しむが、彼ら野生の動物には
そんな風流などあろうはずもなく、やがて来る厳しい冬に備える、大切な時期である。
 そういえば、最近サルも家のすぐ近くで見かけた。今年は柿の生育が悪く、彼らのえさ探しも
大変らしい。さて、人間は・・・・というと、冬ごもりの準備はもう少し先だが、前もって備えておかなくては
ならないものの一つに、「冷凍庫」がある。冷蔵庫とは別に、冷凍専用の「冷凍庫」が各家庭にはある。
 冬の間、雪に閉ざされて買い物に行けなくなってもいいように、食材を確保しておくためである。
 そんな話を村の人に聞いたので、我が家も冷凍庫を購入した。これで一安心・・・・・・・・
 おりしも、今朝の外気温は8度・・・・・秋の向こうに「冬」が顔を見せ始めた。





杜氏
 「小谷杜氏」と呼ばれる、酒造りの名人が二人、私の住む集落にいる。小谷杜氏は全国の名だたる
酒どころに出かけ、その地でできる米と水を使っておいしい酒を造ってきたという歴史を持つ。
 かつては信州や越後はもちろんのこと、西の広島、神戸の灘まで出かけていたという。
 さて、集落の二人の名人だが、一人は私の歴史の師匠、もう一人は野菜作りの師匠でもある。
 信州の木曽と上田でそれぞれ杜氏として活躍されているのだが、新酒の仕込みが始まる秋までは
この集落の自宅で田や畑づくりに精を出し、米の収穫が終わるころにそれぞれの酒蔵へ行き、約半年
そこで酒を仕込む、という生活だ。
 一人の師匠は、自分で作った酒米を使って「杜氏が稲から育てた酒」という、珍しいネーミングの
酒を造っている。「だれがこの名前を考えたんですか?」と聞くと、「アハハ、俺だよ。」・・・・・・・・
 「純米大吟醸」という、最高級の名前をつけてもよい精米度を持ちながら、「そんな名前で酒のうまさを
計るのは好かん。」と、頑固に「純米酒」とだけ銘打った酒を造っている。自分の田で米を作り、それを
使って造ったという酒は、まろやかで、コクがあり、私はファンの一人である。
 そろそろ新酒の仕込みの時期が近づいた。この二人の師匠もこれから忙しくなる。来年の春、新酒の
出来栄えを聞くのを楽しみにしながら、今日もおいしい信州の酒を飲んでいる。





八方尾根
 久しぶりの好天、これは家でごろごろしている場合ではないと、思い立って白馬村の八方尾根にでか
けてみた。冬はスキーでにぎわう八方尾根だが、この時期も高山植物や紅葉を見るための人たちで
にぎわっている。長野オリンピックの大滑降や大回転種目のコースにも選ばれた場所で、スキー場
から上には標高2080mのところに「八方池」と呼ばれるきれいな池がある。ゴンドラとリフトを乗り
次いで約2時間・・・・・今日の目的地はこの八方池と決めた。
 麓の紅葉はもう少し先だが、さすがに2000m付近の山はすでに紅葉が始まっていた。運動不足
の重い体にむち打って、何とか池までたどりついた。それまで雲におおわれていた北アルプスの
山なみが突然晴れ渡り、絶景が目の前に迫ってくる。間近に見るアルプスの山々は迫力満点・・・・・
 絶景の中で昼食の弁当を食べ、写真を撮りまくり、無事に下山してきた。
 いつも麓から見上げている山々だが、今度はあの稜線を歩く計画を立てながら秋の1日を堪能した。





 家のすぐ横を流れる沢に、見慣れない太いパイプがあった。5メートル前後のパイプが数本、草の
中に埋もれている。村の人に聞いてみた。「ああ、あれかね、あれは昔使っていた水道のパイプだ。
ほんの少し前までは、上の沢から水を引いて、あのパイプで家まで水を流していただ。」・・・・・・・
 小谷村には村営水道がある。しかし、それができるまでは、それぞれの集落で山の沢から水を
引き、自家水道として使っていたのだという。しかし、大雨が降ると水が濁ったり、木屑やごみが
入ったりするというので、村営水道が設置されることになったそうだ。
 水道といえば必要なのが水源・・・・・まあ、山里だから水は豊富にあるのだが、いったい我が家の
水はどこから来ているのか、と聞いてみると、向いにある山の奥に「熊沢」という沢があり、そこから
何百メートルも離れたこちらの山の上まで導水管を引いて、そこから各家に配水しているという。
 水道といっても、早い話が「山の水」なのである。確かにおいしい水である。山の中であれば維持管理
もさぞ大変であろう。多少お金もかかるが、ありがたい水道である。
 近くを歩けば、いたるところに湧水があり、飲んでみるとまさに「天然のミネラルウオーター」・・・・・・・
 コンビニでお金を出して水を買っている人たちには申し訳ないが、これが山里に暮らす人たちの
役得である。





りんご
 「りんごを作ってみたいのですが、できませんか?」・・・・村の人に尋ねたことがある。信州といえば
赤く、たわわに実ったりんごのイメージがあったので、我が家でも栽培してみたいとかねがね思って
いた。「ありゃ、だめずら。ここらじゃできねえ。」「えっ、やっぱり寒いからですか?」「いや、寒いのは
いいが、雪にやられるだ。」・・・・・・・りんごの木が冬の積雪で折れてしまうからだめだという。
 村の人も実際に何年も挑戦したそうだが、結局だめだという結論にたどりついたという。
 確かに厳冬期には畑は4,5メートルの積雪の覆われる。よほど太くて大きな木ならいいだろうが、
苗木ならどんなに雪囲いをしてやってもつぶされるだろう、ということは素人にも理解できる。
 かくして、私の「自家製のりんごを食べる」という夢は潰えたのだが、幸い、近くの店には信州産の
りんごがたくさん出回っている。なかでも最近開発されたという、信州特産の「秋映(あきばえ)」という
品種がおいしい。「つがる」や「ふじ」、「紅玉」などという知られた品種より赤の色が濃く、味も濃厚
だ。これを食べて自家栽培をあきらめるしかない。
(秋映という名前の信州りんご)
 がっかりしていた私に、村の人が「りんごはだめだが、ブルーベリーなら大丈夫だで。来年の春に
苗木を植えてみるといい。」と教えてくれた。しなやかな枝を持つので、折れることは少ないという。
 よし、りんごはあきらめたが、今度はブルーベリーに挑戦してみよう、新しい夢をひそかに温めて
いる。





リサイクル
 「今度、公民館で布ぞうりの講習会があるから行ってきます。」・・・・・・奥方が突然そういいだした。
広報のなかに案内があったようで、興味を持ったようだ。
 それはいいのだが、布であれ、わらであれ、「ぞうり」を編むという作業は半端な覚悟ではできない
という体験を過去にしたことがある。講師であったおじいちゃんはいとも簡単に編んでいくが、初心者
にとっては最初と最後は難しいパズルを解いているような、複雑な操作が要求されたことを思い出す。
・・・・「お父さん、お願いだけど、ここに”ずくなし”という道具がいると書いてあるので作ってください。」・・・
 なんだ、その「ずくなし」というのは?・・・・・・説明を読むと、本来なら自分の足の指にわらや布を
ひっかけて編んでいくのだが、足の指の代わりに同じ機能を持つ道具を使うのだとか、根性がない
(足を使うより楽にできるという意味)ので、「ずくなし」と呼ぶらしい。
 しぶしぶその「ずくなし」の制作に取り掛かった。
 意気揚揚と出かけていった奥方、1日かかって夕方帰ってきた。「ああ、疲れた・・・」
 そういいながらできた作品を見せてくれた。1日かかってわずか1足・・・・疲れるはずである。
 小谷村に限らず、山奥の村では不要になった布もこうしてリサイクルしてきたのだろう。布でできて
いるので、履き心地はいいようだ。伝統技術と呼んでもいい、こんな技はぜひとも伝えていかなくては
ならない。このような講習会は大歓迎である。





幻の味
 九州、それも福岡県人ならだれもが親しみのある味、「とんこつ」・・・・・・・ラーメン、ちゃんぽんの
味といえば「とんこつ」以外には考えられないのであるが・・・・・・・・・・
 こちらにきて、「とんこつラーメン」を食べさせてくれる店がないのには参った。ラーメンはあるが、
しょうゆ味かみそ味が主流で、たまに見つけて飛び込んだ店の「とんこつラーメン」は、本場から
言わせてもらうと、「とんこつ」なのであって、本物とは程遠い。
 とんこつ味そのものがないので、長崎ちゃんぽんのような濃厚なとんこつ味のちゃんぽんもない。
 それなら仕方がない、インスタントで我慢するか、とスーパーにいって探してみたが、ここにも
「とんこつ味」のインスタントラーメンはない。いやはやもうお手上げである。
 そもそも「とんこつ」を味わう風土のない地域なので、店に出しても売れないのであろう。
 というわけで、ここ信州では「とんこつ味」は幻の味となってしまった。今は九州に住んでいる
子どもたちに宅配便で送ってもらっている。
 こってりした、あのとんこつラーメンが時折夢にでてくる。





診療所
 持病の薬をもらうために、月に一度訪れる村の診療所がある。最近新築された建物には小谷産の
杉などがふんだんに使われていて、気持ちが良い。
 ここの先生、私と同世代で、話が合う気さくな先生である。
・・・・「山登りが一番いいです。わたしも先日双六岳から水晶岳のほうを回ってきました。若い人には
ついていくのが大変なので、本当は一人がいいのですが・・・」「あなたもぜひ山に登ってみてください。
そうですね、3時間くらいの手ごろな山から始めるといいですよ。」「私たちの歳になると、脂っこいもの
はやめたほうがいいですね。ハンバーグやマーボー豆腐はいけません。あれにはひき肉が入っている
でしょう?ひき肉はよくないですよ。もっとも、私は豚肉が大好きなので困るのですが・・ハハハ。」・・・・・
 全国では医師不足で病院や診療所の運営がむずかしいというところがたくさんあるが、小谷村では
こんな素敵な先生が村民の健康を一手に引き受けてくれている。ありがたいことである。
 近々、先生の忠告を聞いて山に登ってみようと考えている。その折には、また先生と山談義ができる
ことだろう。「若いころはよく山に登っていたのですが・・・」と言うと。即座に「若いころのことを思い出しては
いけません!今の自分の体力をよく見極めることです!」と一喝。おっしゃるとおりです。
 これから長い付き合いになりそうな、診療所の先生である。






村民の足
 今、全国の小さな自治体では、住民の足としての路線バスをどう運営するかで困っていると聞く。
 採算がとれないからと、民間のバス会社はいち早く経営から手を引き、あとは自治体の独自の
判断でバスを走らせるしかないという現実だ。
 ここ小谷村でも、村の予算を使って村営バスを走らせているが、経営はおそらく赤字だろうと思われる。
 3,4年前まではバス会社に委託して、大型バスが各路線を走っていたが、それもむずかしくなったようで、
今は別の会社のマイクロバスが走っている。
 私の住む集落には、一日に6,7便のバスが来るが、朝と夕方の子ども(通学)が乗る便を除けば、
だれも乗らない便がほとんど・・・・・・病院通いのお年寄りが時折乗っているのを見かける程度。
 しかし、地域に密着した路線バスならではの出来事もある。バス停は一応あるが、その近くなら
手を挙げればバスは止まってくれる。バス停から少し離れた我が家だが、顔なじみになった運転手
さんは、わざわざ我が家の前でバスを停めてくれる。「もう、ここの生活には慣れたかね?」と声も
かけてくれる。運転手さんもおそらく同じ村民なのであろう。
 経営的には苦しいのだろうが、街を走る路線バスにはない、温かい雰囲気がある。通学に利用する
子どもたちともバスの中で気軽に話すことができ、畑にいてもバスの到着で時刻を知ることができる。
 ほかのところは知らないが、わが村のバスは間違いなく村民の足であり、走っているだけで安心
できる、「お守り」のような存在である。





アケビ
 春に薄紫色の花を見つけておいた場所へ行ってみると、みごとな実がなっていた。
   
アケビは熟すると実が割れるので「開実(あけみ)」と呼んでいたものが「あけび」に変わったものだとか・・・・
 子どものころによく食べたが、その後はご無沙汰であった。家からほんの少し離れた場所に、たわわに
実ったアケビがぶらさがっている。これも山里の秋のめぐみ、おいしくいただいている。
 アケビは草ではなく木なので、一度見つけておけば毎年同じ場所に実がつく。人間が食べてもおいしい
ので、野生の鳥や動物たちにも人気があるようだ。彼らに食べられないうちに、早めの収穫をしている。
 さすが山里と驚いたのは、近くのスーパーにこのアケビがならんでいたこと・・・・4個で200円という
値札がついていた。この実のおいしさは表現するのがむずかしい。ただ甘いのでもなく、すっぱくもなく、
絶妙の甘さと匂いで、一度食べるとやみつきになること請け合いである。
 孫たちにもぜひ食べさせてやりたい、山里の味である。





野菜
 生まれて以来、今年ほど野菜をたくさん食べた年はない。春は家の近くでいくらでもとれる山菜、夏は
畑の野菜、おまけに近所の人からいただく野菜など、食卓の上は野菜のオンパレード・・・・・・・
「おめぇさんとこは○○あるだか?」と、畑帰りの近所のおばあちゃんが袋一杯の野菜を届けてくれる。
 まさに「とてたて」、新鮮この上ない、極上の野菜である。いただくばかりでは申し訳ないので、我が家
の畑でとれた野菜をお返しに持っていく。とは言っても、こちらは素人、たいていの野菜は各家庭に立派
なものがあるので、この集落ではだれも作っていない野菜を持っていく。九州ではよくたべた「まくわうり」
などは珍しいというので好評だった。
 最近は「えだまめ」をたくさんいただく。買い物ふくろいっぱい、それも何人もの人からいただくので、我が家
の台所は枝豆の山である。毎日せっせと食べているが、スーパーで買えば1袋何百円もするもの、まったく
贅沢といえば贅沢である。おかげで体調は良好、肉や魚を全く食べない日が何日も続くことがある。
 先日もなめたけ、まいたけなどのキノコをたくさんいただいた。調理方法を変えれば、同じ食材を何日も
食べて飽きるということはない。こうしてやったり、もらったりの中に、村人との自然な交流が生まれている。
ほんとうにありがたい話だが、こう野菜ばかり食べていると、なんだか牛かやぎになったような気がする。
 今日あたり、久しぶりに肉を食べてみるか・・・・・・・・・・・




青鬼
 いつも通る白馬村の国道沿いに「青鬼」と書かれた標識を見つけ、その名前のおもしろさにつられて
足を運んでみた。「青鬼」と書いて「あおに」と読む。
  
 国道から山に入り込むこと15分、戸数14戸足らずのこじんまりとした集落にたどり着いた。入口に
ある説明の看板を読むと、江戸時代から明治にかけて建てられた家屋がそのまま残っていて、
「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されているのだとか・・・・・・さらに集落の上部にはみごとな
棚田が広がり、ここも「日本棚田百選」に選ばれているという。あまりの絶景にしばし感動!
 「青鬼」という珍しい名前の由来については、こんな言い伝えがあるという。
・・・・・・・・昔、白馬の東の村から、鬼のような大男がやってきた。そして、村人たちを、苦しめていた。
ある日、村人は、大男を、岩戸山の、底なし穴にとじこめた。それから、しばらくたって、旅人がきた。
そして、こんな話をした。「戸隠に、鬼のような大男がいるが、村人たちを助けて、すごく喜ばれている。」と。
村人は、「大穴をぬけて、戸隠にぬけたにちがいない。そして、戸隠様の下を通る時に、たましいがいれ
かわったのだ。」と思った。それから、お善鬼様として祀り白馬の東の村を鬼無里村、こちらを青鬼村
というようになった。・・・・・・・・・・・
 まるでむかし話の絵本に出てくるような、神秘的な集落である。最近では訪れる人も増え、観光バス
もやってくるのだとか・・・・・・・
 こんな山里が近くにあったことを知って、あらためて歴史が生きているという実感をもった。
         (紹介しているホームページ





山野草
 山野草といえば、専門店で一株何百円も出して買い求めるものだと思っていたが、山里にはいたるところ
に自生しているということに気づいた。(当然ではあるが・・・・・・)
 こちらに来て、まっ先に感動の「対面」をしたのは「ホタルブクロ」であった。
 以前から好きな野草だったので、専門店で3,4株を買い求めて庭に植えたのだが、それからしばらく
たった頃、家の近くのコンクリートの壁の割れ目になんと、あのホタルブクロが咲いているではないか!
 わが目を疑う出会いであった。よくみると、その近くにもあちこちに自生していた。赤紫色や白の可憐な
花がつつましく、恥ずかしそうに下を向いて咲いている。そのことを村の人に話すと、「ああ、あれはこの
辺ではアメフラシというだよ。山へいけばいやというほど咲いてるだ。」・・・・・・・
 なんだ、そうだったのか、わざわざお金を出して買うものではなかったのだ。ここはまぎれもなく山里、
こんな野草が咲いていて当たり前・・・・その後トリカブト、シラネアオイ、エンレイソウ、ヤマシャクヤク、
フタリシズカ、ヒトリシズカなどの野草を家の近くで見つけた。探せばあるものである。
 教訓その1・・・・山野草は買うべからず。





 彼岸を過ぎて、あれほど暑いと思っていた気温が一気に下がりだした。今朝の気温は10度・・・・・・
九州なら11月の気温だ。我が家のある集落の標高は約800m、気象学的には100m高度があがる
ごとに0.6度気温が下がることになっているので、通年平地よりも4.8度気温が低いことになる。
 村の人に聞くと、もうこたつを入れた家もあるとか・・・・・夏のあいだ、うるさく飛び回っていたアブやハチ
の姿も見えなくなった。昨日は家のすぐ横にあるクリの木に猿が一匹、やってきていた。冬に向けての
準備なのだろう。各家の畑では野沢菜や白菜が勢いよく生長している。いたるところに自生している
クルミの木も少しずつ紅葉を始めた。秋が深まり始めているということを肌で感じることができる。
 先日、養蜂の巣箱を熊にやられたおじいちゃんに、「あれから熊は来ましたか?」と聞くと、「いやあ、
もうこねぇだ。山に帰っただよ。」という。秋になって山に木の実やキノコなどのえさが豊富に実ったので、
危険を冒して里に下りなくてもいいのだそうだ。
 季節の変化が日めくりカレンダーのようにはっきりとわかる山里である。




栂池自然園(つがいけ しぜんえん)
 小谷村という名前は知らなくても、「栂池自然園」なら知っているという人もいるだろう。
 中部山岳国立公園の中にある高層湿原で、春から夏にかけて多彩な高山植物が咲き乱れる。
  
(標高1800mの栂池自然園)
 また秋には草紅葉や木々の紅葉も楽しめる。北アルプスの白馬岳への登山基地としても知られている。
 この自然園はまぎれもなく「小谷村」の中にある。他にめぼしい観光地のない小谷村だが、ここだけは
全国区の知名度であろう。園内には木道が整備され、一周全コースを回れば3時間はかかる、絶好の
ハイキングコースである。もちろん時間に合わせてショートコースもあり、一番奥の展望湿原までいくと
白馬大雪渓が目の前に見える。小谷村に移住する前、4回ここを訪れた。ガイドブックを片手に、高山
植物の名前を確かめたり、写真を撮ったり、迫るように立ち並ぶ白馬三山に見とれたり・・・・・・・・
 「これぞ憧れの信州だ。」と感動したものである。
 今月から来月にかけて、紅葉祭りがあるとかで、村民には特別料金(通常3000円が1000円に)が
用意されている。これは行かない手はない。
 冬は10mを超える雪の中に閉ざされるが、雪解けのあとに見られるミズバショウの群落は絶景である。
 小谷村の村民の一人として、お勧めの観光スポットである。ぜひ一度ご来村あれ。






ヒスイ
 ヒスイ・・・・・・薄く淡い緑色に代表される「宝石」だが、その原石が日本で産出されるということが
わかったのは最近のことだという。新潟県糸魚川市にある渓谷周辺が日本で唯一の原石産出地
だと知る人は少ないだろう。「ヒスイ峡」と銘打った渓谷を訪ねると、川の中に大きな原石がむき
出しの状態で水に洗われている。
(我が家にあるヒスイの原石)
 この石に「ヒスイ(翡翠)」という名前をつけたのは明治以降のことで、それ以前は「玉(硬玉)」と
呼ばれ、弥生時代から装飾品の勾玉などに加工されて全国に広がったという。
 出雲にある「玉造」、大阪にある「玉造」もこの玉の加工をした地名である。
 小谷村からは車でわずかのところにこのヒスイの産地があり、当然昔から玉の流通経路であった
ことは間違いなく、小谷村の古道を通って安曇野方面へ運ばれた玉(ヒスイ)が古代の王や豪族の身を
飾ったことだろう。糸魚川市の海岸では今でもよく探せば原石が見つかることもあるのだとか・・・・
これも太古のフォッサマグナの地殻変動の産物なのだろう。
 いにしえのロマンの香りを感じざるを得ない。





フォッサマグナ
 日本列島は太古の昔、今の静岡、長野、新潟を結ぶ線で2つの大陸に分かれていた。だからその間は
海であった。その後太平洋からプレートと呼ばれる地殻が移動してきて、伊豆半島などを載せてぶつかり、
海をふさいで、そこに巨大な溝(深さ8000メートル、幅100キロ)ができた。
 この溝を「フォッサマグナ」と呼ぶ。糸魚川・静岡構造線はこのフォッサマグナの一番西のラインになる。
 この巨大な溝はやがて何万年もの間に石や砂、土砂などが埋まり、今のような地形になった。もともと
大地の切れ目なので、地下からのマグマの影響を受けやすく、フォッサマグナ上には数多くの火山や
温泉がある。富士山や箱根、浅間山、妙高山などもこの上にある。
 さて、そうなるとわが小谷村も、このフォッサマグナの上にあり、私の住む家も当然この溝の上に
立っているということになる。集落のいたるところで、かつて海や川の中にあったと思われる、丸い小石
でできた礫岩(れきがん)が見つかる。村の人に聞くと貝の化石も時折見つかるそうだ。
 小谷村や隣の白馬村に温泉が多く、しかもどの温泉もナトリウム泉、つまり塩辛いのも、ここがかつて
海であり、海水が地下に閉じ込められたところだと聞くと、納得できる。
 心配されるのが地震だが、村の人は「心配してもしょうがないだ。来るときはどこにいても来る。」と
笑って話す。確かに地震発生のあらゆる要素を、最大限内包した地形なので、いつ起きてもおかしく
ないのだが、幸い今のところは平穏である。観光客はアルプスの景観の美しさに目を奪われるが、自分
の立っている足もとにこんな地球のドラマが詰まっていることにはなかなか気がつかない。
 気持ちのいい温泉につかりながら、しばし大地のドラマに思いを馳せてみるのもよいだろう。






新聞
 いくら山奥で自然に囲まれて暮らすことが心地よくても、文字や活字に触れずに過ごしていると、
何となくさびしくなる。そこで新聞をとることにした。
 新聞販売店に連絡をとると、「申し訳ありません。そこまでは配達してないんですよ。すぐ下の
集落までは持っていくので、取りにきてもらえませんか・・・・・・・・」
 山間地でもあり、人手不足もあって、とても全戸に配達することは不可能だという。
 仕方がないのでそれで契約をした。以来毎日、歩いて30分の下の集落まで新聞を取りにいく
ことになった。初めのうちは健康にもいいから、と粋がって歩いて行っていたが、往復1時間の
新聞取りはさすがにくたびれる。今は買い物のついでに取るか、バイクでひとっ走り・・・・・・・・
朝刊のはずがときには「夕刊」になってしまう。
 街に住んでいるときには当たり前だと思っていた、各戸への新聞配達も、こんな山里では
当たり前ではない。あらためて、朝起きたら新聞受けに新聞があるという生活がとても恵まれて
いたんだということに気づかされている。
 街の人たちと同じ新聞料金を払っているのに、山里の人たちは誰ひとり文句は言わない。




伝承2
 村や集落に伝わる話を集めた郷土史の本を読んでいる・・・・・・・・
私の住む集落の入口に、小高い丘があって、かつてそこに「奴奈川姫(諏訪神社の祭神の母)」を祀る
社があったという。地元の人たちは「古宮」と呼んでいたが、白鳳年間(7世紀後半)に少し上部に移転
したという。古宮のそばに樹齢何百年という「梨の木」がある。(切ってはならないという言い伝えあり)
(かつて古宮があったとされる丘と梨の木)
 何年か前、道路拡張工事でここの斜面を削っていると、大きな墓石らしき石がでてきたが、
工事の途中で行方不明になったという。すぐそばには、奴奈川姫の腰元だったという「おちよう」
の塚がある。地元の古老は、この古宮が諏訪神社の発祥だと話している。
 昔、村の人が畑に植えていた長いもの蔓に足をひっかけてつまづき、その拍子に近くにあった
グミの木の枝で目をけがした。それ以来、この集落では長いもとグミは植えていないのだとか、
そういえば、野生のグミの木にはとんとお目にかからない。
 海や山で生きる人々は、自然という人知を超えた存在の大きさに畏敬の念をもって接している。
 何でも科学で解明しようとするのが現代社会だが、人間の根源にある「畏れ(おそれ)」による
伝承や故事を今でも守って生きる人々がいるという事実も、忘れてはならない。
 街にいるといろんな意味で傲慢になる人間も、こんな山深い里にいると不思議に素直になる
という現象を身をもって感じている。






狼の話
 集落の古老の話である。
 ・・・・・・・昔、集落から半里ほど離れた獅子ヶ平というところに、「犬の屋(へや)」と呼ばれる洞窟があった。
ここには狼が住んでいたが、隣の沢に引っ越していき、ついにいなくなった。
 昔は狼を「山の神様」と言って、狼が子どもを産めば「産やしね(うぶ養い)」と言って、団子や餅を
重箱に入れ、その穴の入口に置いてきた。すると、その晩のうちに、各戸にまちがいなく重箱を返した
という。・・・・・・・・・・
 狼が日本で絶滅する前の話である。狼を神聖な生き物として神格化する話はあちこちにあるが、
この集落にもそんな話が伝わっていることを聞くと、当時の人々の暮らしが自然やその中で生きる
動物たちと、いかに密接にかかわり合っていたかがうかがえる。
 先日も夜、車を走らせていると、ライトの先に何やら動くものがある。スピードを落としてよく見ると
キツネであった。別にこちらを怖がる様子もなく、悠然と立ち去っていった。
 真っ暗なところでこんな野生の生き物に出会うと、怖いというより「畏れ(おそれ)」を感じてしまう。
 狼に対する感じ方もおそらく同じものが底辺にあるのだろう。
 狼だけでなく、この周辺の集落には狐、むじな(タヌキ)、蛇、馬、大木、川や岩などを神格化した
伝承が数多く残っている。自然と深くかかわり合いながら生きてきた山の民の「魂の原型」が見える。




旅人のために・・・・・
 同じ谷筋にある別の集落のおじいちゃんと話していると、こんな言葉が・・・・・・・・・
「今の若いもんはズクナシ(なまけもの)でいけねぇ。朝はお天道様が上がったって起きてこねえだ。
おらたちは若いころから、朝早く起きて道の草切りをしてから朝飯をくったもんだ。
今の若いもんはそれをやらねぇ。・・・・・・・・」
 おじいちゃんが嘆くのは、夏草刈りを最近の若者がやらなくなったということ、
おじいちゃんが若い頃は、草刈りは自分の家のためにやるのでなく、その道を歩く「旅人」たちの
ためにやったんだとか・・・・「塩の道」と呼ばれた古い街道は、そのほとんどが山道である。
そこを往来する旅人にとって、生い茂る夏草は厄介なものである。旅人が気持よく歩けるように
邪魔になる草はその集落のものが協力して刈った、という。
 「旅人のために・・・」という言葉が妙に心に残った。見も知らぬ他人が歩きやすいように草を
刈っておく・・・・そんな思いやりがほんの少し前まではごく普通にあった。そのことに感動!
 そういえば、私の住む集落の人は、ほんとうにこまめに道や斜面の草刈りをしている。
初めは、自分の地所だからやっているのだろう、と思っていたが、あらためてよく見てみると、
そうではない、確かに自分の地所もあるが、その周辺の私道や村道も残らずきれいに刈る。
こんな山深い里では、生い茂る草も半端な量ではない。黙々と草刈り機を動かす村の人を
見習って、私も最近、自宅周辺の草刈りに精を出している。
さすがに「旅人」はいないが、だれが通っても気持ちがよいようにと心がけながら・・・・・・・・・





白樺
 南国九州に住んでいると、北国といえばすぐに思いつくのが「白樺」の木だった。昔からこの木が
好きで、信州に旅をしたら、必ずこの木を写真に撮って帰っていた。こちらへきてまず買い求めた
木も当然「白樺」の苗木であった。庭に苗木を植えて、生長を見守ること5ヶ月・・・・・・・
 初めは根元が鉛筆くらいの太さであったのに、3倍近く大きくなった。丈も背丈程度だったものが、
今ではおよそ2倍、驚くべき生長である。
この白樺、苗木のときから幹が白いのではない。根元の幹まわりが5,6センチになると白くなる
のだとか・・・・・したがって我が家の苗木もまだ白くはない。
 近くの山を歩いても、なかなかこの白樺の木にお目にかかれない。何かわけでもあるのかと思い、
村の人に聞いてみると、「白樺?ああ、カンバは使い道がないだ。この辺じゃだれも植えねぇな。・・・」
 家の柱や梁にする材木には向かないので、売ってもお金にならない木だそうである。
 なるほど、それで近隣の山に白樺がないわけである。白樺のある家にあこがれて庭に植えたと
村の人に話すと、「あれは大きくなるだで、雪かきの邪魔になるだ。切ったほうがいい。」という。
 せっかくの親切だが、もう少し、せめて幹が白くなるまでは育ててみたい。どうしても邪魔になるなら
切らざるを得ないだろうが、私の憧れの木である。できれば大きくして、夢に描いた、白樺のある家で
暮らすという体験をしてみたいと思っている。





祈り
 集落の入口に、六地蔵がひっそりと立っている。地蔵さまはどこでもよく見かけるが、六体そろった
ものはめずらしい。人間が堕ちる六つの悪道の入口で、堕ちてくるものを助けてくれるというので、
六体がそろっているのが本来の姿だと聞いたことがある。
 村の古老にこの六地蔵のいわれを聞いてみたが、はっきりしない。江戸時代のものだろうという
ことであった。かわいい前掛けをつけた地蔵の顔は、風雪にさらされ、はっきりしないものもあるが、
どれもみなやさしい顔立ちである。この地蔵の前がかつての街道だったとか・・・・・・・
 道行く人たちはこの地蔵の前で立ち止まり、何かを祈り、手を合わせたのだろう。
 春になると、すぐ後ろにある桜の木が満開になり、地蔵さまの頭に花びらが積もることがある。
 信心とはあまり縁のなかった私だが、そのあまりの気高さに、思わず手を合わせてしまった。
 冬、雪の中でこの地蔵さまたちに笠をかけてやれば、そっくりそのまま「笠じぞう」の昔話に
なりそうな、そんなほのかな、温かい風景である。山里には、いたるところに「祈り」の場が
ある・・・・・・・そのことに最近気付き始めている。





通学路
 先日、村の人が、「昔、学校に通った道があるから見せてやろう。」と、軽トラックに乗せて、集落の
上部にある峠へつれていってくれた。
 草が生い茂る中をかき分けて進むと、少し平らなところへ出た。「ほら、あそこに見える細い道が
おらたちの通学路だ。」見ると、ほとんど草に覆われているが、かすかに道らしき痕跡がある。
「・・・・・そうだね、毎日通っていたから、あまり考えたこともなかったけど、家から1時間近くは
かかっていただ。帰りは途中で道草をして、鳥の巣をとったり、木の実を探したり、ワナをしかけたり、
結構楽しかっただよ。・・・・・」尾根一つ越えた村に小学校があったので、この集落の子どもたちは、
みんなで集まって山道を登り、草をかき分け、尾根向こうの麓まで通学したのだという。
 尾根向こうとは言うが、標高差二、三百メートルはゆうにある。毎日登山をしているようなもの。
「冬はどうしたんですか。雪が大変でしょう?」「各家の親たちが当番で朝早く雪踏みをして道を
作ってくれただよ。かんじきをつけて雪を踏んで固めるだ。ずっと降ってるときは迎えにきてくれた
だよ。」・・・・・・小学4年生までは少し下の集落に分教場があったので、そこに通学し、5年生から
この山道を通って通学するのだそうだ。
 自分の小学校のころの通学の様子を思い出し、同じころ、ここを歩いて通学していた同世代の
子どもたちがいたことに思わず胸が熱くなった。
今の子どもたちや親たちなら、まず不可能な通学方法である。そんな子どもたちが苦労して通学した
小学校も昨年とうとう閉校となった。児童数の減少で、村に3つあった小学校が一つに統合されたからだ。
 今子どもたちは村営のスクールバスで通学する。かつて祖父母や親たちが歩いたこの道を知っている
子どもたちはどのくらいいるのだろうか。今は誰も通らなくなった、かつての通学路を一度歩いて
みたいと思っている。





塩の道
 「敵に塩を送る」・・・・ということわざは、戦国時代、敵対する北条氏から塩の輸入を止められ、難渋
していた甲斐・信濃の人々に、「武田信玄とは武力で勝負する。」と、義をもって塩を送ったとされる、
越後の上杉謙信の故事による。
 越後から信濃へ塩を運んだとされる道が「塩の道」で、今は生活道路としては使われない「古道」
である。新潟県糸魚川から険しい峠をいくつも越え、小谷、白馬、大町を通って松本へ至る、古代から
明治時代まで使われた物資運搬の幹線道路でもあった。牛の背に塩や産物を載せて運んだ「牛方」、
冬の積雪期には「ボッカ」と呼ばれる人たちが人力で、荷物を運んだといわれる。
 小谷村には古道「塩の道」が当時の面影を色濃く残しながら現存する。毎年5月の連休には、「塩の道
祭り」と称して、盛大なウォーキングイベントが行われている。
      
 私の集落のすぐ近くにもこの道があるのだが、ほとんど人通りのない路傍に、長い間の風雪に耐えた
地蔵や馬頭観音などの石仏がひっそりとたたずんでいる。
 道は人々や村の盛衰に呼応してその役目や姿を変えていく。今を生きる私たちが、そんな昔の道を
残していこうとするのは、道そのものではなく、その時代に生きた人々の存在や歴史であるような気が
してならない。
 ひっそりとした古道を一人で歩いていると、ふと向こうから牛を引いた牛方さんがひょっこり現れるような、
そんな何だか不思議な空間にいる自分に気がつく。






風林火山
 室町時代から戦国時代にかけて、安曇野以北を治めていたのは仁科氏である。現在の白馬村や小谷村
あたりは、その仁科氏の一族であった飯森十郎盛春という武将の領地であった。
 武田信玄と上杉謙信の戦いで有名な「川中島の戦い」・・・・全部で5回の戦さがあったが、その3回目、
上杉軍の川中島への補給路にあたる信越国境の小谷村を制圧すべく、信玄は軍勢を繰り出してきた。
 本家の仁科氏はいち早く武田方についたが、飯森氏はそれまで親交のあった上杉方についたため、
押し寄せる武田軍と戦うことになる。白馬村での戦いに敗れ、最後の決戦を小谷村平倉の山城で迎えたが、
善戦空しく全員討ち死・・・・・・その折飯森盛春は地元小谷村の有力者(当時、小谷五人衆と呼ばれていた)
に加勢を頼んだが、1人を除き、4人はすでに武田方に内応していたため、身内同士が戦う、凄惨な戦で
あったという。その城は私の住む集落のすぐ近くにあり、当然この集落も巻き込まれていたにちがいない。
 家のすぐ下に、飯森十郎や家臣を祀る墓石が置かれている。本当の墓所はちがうところなのだが、
こんな集落に墓石があるところを見ると、何らかの深い関係があったものと思われる。
 今テレビドラマで人気のある「風林火山」で描かれる舞台が、遠い昔この地で現実のものであったと
思うと、感慨深い。当時はこの近くに「風林火山」の旗がなびいていたことだろう。
歴史が遠いものでなく、身近に感じられる山里である。





先住民
 小谷村に住み始めて約5か月・・・・・さすが山の中の村だと実感させられるのは、野生の動物との遭遇だ。
これまでに出会ったり、見かけた動物は、カモシカ、サル、ハクビシン、テン、キツネ、ウサギ、ヤマドリ・・・・
    
                (ハクビシン)                       (キツネ)
 さすがにクマにはまだお目にかかっていないが、その他にもムササビ、リス、タヌキなども身近なところに
いると聞く。もちろん私の天敵である「へび」もたくさんいる。すでに15匹以上は見かけた。
 「・・・・・ここはまむし谷と呼ばれたほどまむしがたくさんいただが、最近は少なくなっただよ。どこの家にも
まむし酒が2,3本はあるだろう。むかしはよく食べたもんだ。・・・・・」と村の人は言う。
 借りた畑にトウモロコシやスイカを植えたが、収穫直前になってごっそり食べられてしまった。「おめえさんとこは
何もガードをしてなけりゃ、そりゃやられるわ。」と笑われている。地元の人の畑を見ると、「なんだ、これは?」と
思えるほど何重にも柵を張り巡らせ、厳重にガードされている。そうしていてもやられるのだとか・・・・
 無防備の我が家の畑は、彼らにとっては格好のえさ場にちがいない。
 先住民である彼らに敬意を表して、今年だけは提供することにしているので、仕方がないかとあきらめて
いるが、来年は完璧な防御をしてやろうと思っている。
 こんな山奥では野生の動物は、迷惑だがともに厳しい自然の中で生きる同志だという気持ちが生じても
おかしくない。むやみに駆除する対象ではないのである。あくまで彼らのほうが先住民だということ・・・・・・・・・
それほどに山が深い里である。





屋根
 北国の旅をしていて、このあたりはどのくらい雪が降るのかを知る方法は家々の屋根を見てみることだ。
豪雪地帯と呼ばれる地域には、「かわら」を使った家はまず見当たらない。瓦のかわりに鋼板が使われる。
あるいは茅葺き屋根の上に鋼板を張ったものも多くみられる。
表面のさび止めの塗料が赤、青がほとんどなので、雪の多い地域の屋根は大変カラフルである。
    
 瓦はそれ自体の重量があり、1メートルを超える屋根の積雪に、瓦の重量まで加わっては家がもたない、
それで屋根自体の重量をできるだけ軽くするために瓦は使わないという。
 それにもうひとつ、屋根の雪下ろしをするときに、瓦だとすべりやすい、ということもある。鋼板屋根には
滑り止めの足場になる鉄の棒がはめこまれていて、そこに足を置いて雪を下ろすのである。
 先日の中越沖地震で、長野県でも震度6クラスの揺れを観測した村があったが、家屋の倒壊はほとんど
なかった。専門家によると、かわらを使っていないので、屋根の重量が軽かったため、揺れが小さくて
済んだのだという。
 小谷村から南へ、白馬村、大町市、安曇野へいくと次第に鋼板屋根からかわら屋根に変わっていく
のがよくわかる。それに合わせて積雪量も少なくなっていく。
 ただ一つ、鋼板屋根の欠点は、積雪のため軒下に雨どいがつけられないので、上部の屋根から落ちる
雨だれ音が大きいということ、直接屋根をたたく雨音がうるさく、テレビもよく聞こえないときがある。
 しかし、これも雪国の暮らしの一部分・・・・・みんな我慢をして暮らしている。





伝承
 全国に末社がある「諏訪神社」の祭神は、「タケミナカタノミコト」という。お父さんは出雲神話で有名な
大黒様(オオクニヌシノミコト)、お母さんは新潟県糸魚川市あたりに勢力を持っていた豪族の娘で、「ヌナ
カワヒメ(奴奈川姫)」。何があったのか、タケミナカタノミコトを生んだお母さんは、小谷村を流れる姫川の
淵に自ら身を投げたという。その亡骸を戸隠に運ぶ途中に通ったのが私の住む集落・・・・だったとか。
(集落にある諏訪神社)
 集落の入口には、姫の腰元だったといわれる「おちょう」さんの塚があり、そのそばに大きな梨の木が
ある。村の言い伝えで、この木は絶対に切ってはならない、この木に実がなった年は「けかち(大凶作)」
が起こるという。神話時代の話が日々の生活の中に生きており、もっと驚くのは村の人たちがみんな
そんな言い伝えを誇りに思っていること・・・・・・祖父母や両親から聞いた話を何代にもわたって言い伝え
る情熱は半端なものではない。
 開発が進む前はどこにでもあったはずの村の伝承、今は開発とは縁のない山奥の集落にひっそりと
こうして残っている。馬鹿げた昔話だと笑う気にはならないし、こんな山奥で深い自然に囲まれて生活を
していると、妙に現実味があるから不思議だ。
 雪に閉ざされた家々の中で、囲炉裏の火を囲み、おばあちゃんやおじいちゃんが聞かせてくれる昔
からの言い伝えを聞く子どもたちの心に、自分の生まれ育ったこの地がもつ「命」が宿っていったのだろう。
 便利さと快適さを求める開発と引き換えに失ってきた「土地に宿る命」・・・・旅をしたくなる気持ちの裏には
もしかするとそんなものへの郷愁があるのかも知れないとしみじみ思う。




 よく野菜をもらう、近所のおじいちゃんは、働き者だ。朝は5時ごろから耕運機や草刈り機を動かし、田んぼや
畑、山野草の栽培、炭焼き、キノコ栽培・・・・など信じられないほどいつも体を動かしている。
 このおじいちゃん、家から少し離れた高台で養蜂もやっている。このあたりは、自然が豊かなのでいろんな花
が咲き、昔から養蜂は集落の大事な産業の一つ・・・・・中でも「栃蜜」、つまり栃の木の花から集めた蜜は上品で
くせがなく、蜂蜜の中でも最高だと言われる。その栃蜜を作っているおじいちゃんが作業をしているところを通った
ので、ちょっと寄ってみた。私のためにわざわざ仕事の手を休め、いろんな話をしてくれた。
・・・・・何日か前、クマのやつが箱を4つ、5つ下の道に落として食べてしまっただ。ほれ、そこにあるのが食べ
残した巣箱だ。・・・・・・みると、無残に食い荒らされた巣箱の残骸が小山のように積み上げてあった。
 高電圧の電線を柵にして張り巡らせているが、熊は電線のないわずかな隙間から侵入してくるらしく、
対策のしようがないという。熊の捕獲用にオリも置いているが、中のえさだけを巧みに食べてまんまと逃げて
いくらしい。・・・・・この前一頭捕まえただよ。そいつは子どもで、今親が来ているらしい。まだこの近くで
うろうろして、様子をうかがっているずら。・・・・・・・このおじいちゃんの奥さんは昨年、すぐ上の畑でクマに
遭遇したそうで、腰がぬけたと話してくれた。我が家から200mもないところである。
 いやはや、九州ではもはや絶滅したといわれるツキノワグマが、ここではごく普通に棲息している。
 その日のうちに、クマよけの大きな鈴を買い込んだのは言うまでもない。役に立つのか、どうかわからないが、
ほかに方法がない。「よし、鉄砲を買おう。」・・・・・・・今真剣にそう考えている。





家名(エーナ)
 私の住む集落の各家には「家名」(地元の人の発音ではエーナ)という、家固有の呼び名がある。
20戸の家だが、3つの苗字しかない。家を識別するには名前を言うより、家名を使うほうがまちがいがない、
という考えらしい。(田舎にはよくあることだが・・・・・・・)
 その集落の草分け、最初に入植した家を「大屋家(オオヤケ)」、坂の下にあるから「坂」、大きな岩の横に
あるから「岩根」、「大屋家」の隣は「向かい」、後ろにあるから「後ろ」・・・・・・・
 さて、それなら我が家にもあるはず・・・と村の人に聞くと、「ああ、おめえさんとこは宮下だ。」という。
 なるほど、たしかに我が家のすぐ上に諏訪神社のやしろがある。それで「宮下」・・・・・・
 はじめはそれらの家名を使うことに少々抵抗もあったが、最近では重宝することに気付いた。
 村の寄り合いにいくと、みんなこの家名で呼び合い、最近それが誰をさすのかがようやくわかってきた。
 だが、我が家を「宮下」と呼んでくれる人はまだいない。本当にこの地に根を下ろし、この地の住人と
認めてもらえたら、そのうち私は「宮下」とよばれることになるのだろう。
 苗字ではなく、「宮下」・・・・・なんだかへんな感じ。





小谷村
 長野県北安曇郡小谷村・・・・・・・長野県の最北部、新潟県と県境を接する、人口3500人の小さな村である。
小谷と書いて「オタリ」と読む。隣には白馬村、車で40分も走れば日本海に面した新潟県糸魚川市、日本でも
指折りの豪雪地域のひとつである。
 そんな小谷村の山奥の、戸数20戸の小さな集落に我が家はある。
・・・・・「九州から?  なんでそんないいところからこんなところへ来ただ?」仲良くなった村の人からそう聞かれる。
 雪の少ない九州から、豪雪で苦しむこんな所へわざわざやってくるとは、よほどモノ好きなやつだ、と思われた
らしい。半端な積雪ではないことは承知している。雪かきをしなければ、あっという間に2、3メートルは積もる。
 一昨年の12月は記録的な大雪で、九州からやってきて、下の道からわずか10メートル足らずの我が家の
玄関まで辿りつくのに30分かかった。まさに雪の中を「泳ぐ」という感じ・・・
 しかし、雪のない3つの季節は最高である。残雪がまぶしい北アルプスの山並みや一斉に芽をふく草花が
忘れかけていた「季節」という感覚を呼び覚ましてくれる春・・・街では連日35度を超える猛暑日だというニュース
を尻目に、朝晩は毛布なしでは寒いくらいに涼しい夏・・・・・紅葉とはこんな景色を言うのか、と息をのむほどに
全山が真っ赤に染まる秋・・・・・・
 厳しさと優しさを併せ持つ、自然豊かなこの村で私の最後の「回り道」が始まった。
 仙人への道は遠いが、一歩でも近づけることを夢見ながら何とか生きていこうと考えている。


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